古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 下総国③ 千葉市中央区南おゆみ野(千葉中央遺跡通り)

 長妙寺の先、茂原街道旧道、同バイパスを横切って直進し、発展途上地域を超えて浜野川に達する。

いくつかの候補の橋がある。仲良し橋、清流橋、御手洗橋もあるが進むルートに直結するのは南おゆみ橋。

渡った先のこのルートの右側はすごい。

後で立ち寄る千葉市埋蔵文化財調査センターからもらった資料に記載されている図はわかりやすく秀逸。

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グーグルの地図で見ると以下のとおり。

なお、グーグルマップはルート探索にとても役立つ。ヤフーマップより格上なことは否めない。

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 この先、現江戸川を超えて東京都江戸川区に入ると東西にまっすぐな上小岩遺跡通を通ることになるが、南おゆみ野からまっすぐ北上するルートはそれ以上の深い歴史性を感じさせるもので○○遺跡通りと命名してもいいのではと一人思っている。

 そうだ、江戸川区の例に倣って千葉市中央区遺跡通り、少し縮めて「千葉中央遺跡通り」と言おうか。勝手なネーミングです。

千葉寺、亥鼻を経、吾妻橋通ってJR千葉駅そば市民会館まで直進します。

 以下続く

古代東海道 下総国② (古市場)高嶋天神社と長妙寺橋

村田川にかかる長妙寺橋を渡る。そこは割と普通に見える町並み。

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せっかく、渡るのだから同じ名前のお寺を見てみようとすぐ右折。

おや、途中、ひなびたいかにも村のお宮という感じの神社があった。

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ところが、

平安時代から続き、千年の歴史を持つという。

しかも菅原孝標5代前の菅原道真本人をまつるというではないか!

ちょっと出来すぎ。

案内板から引用させていただくと

古市場天神社の周辺は、かつては「高嶋(たかじま)」と呼ばれ、これは平安末期から鎌倉初期にかけて、千葉氏の家臣「高嶋恒重」の館があった(菊間館跡または高嶋館跡)ことからと伝えられております。恒重が治承年間(一一七七~一一八一)にこの地に神社を建立し、道真公をお祀りしたといわれております。

 寺社はそれこそ星の数ほどあるが、ほとんどは数百年の歴史。千年に及ぶというのは多くはない。

建立は1177年としても更級日記の150年後だから彼女が知るはずはないが。

 

少し先を行くと長妙寺

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日蓮宗のお寺で創建時は不明とのこと。

高嶋天神社の方がアウラを発散している気がする。

 

なお、村田川の北側は下総と言ったがこの両寺社は現市原市(旧上総国)。どううこと?

24号線にかかる村田橋同様、ここでも河川の流れがかなり変化(南下)しているということか。

 

 

 もう一度地図を。

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 ところで更級日記を考察するうえで (古市場)高嶋天神社と長妙寺橋をまな板に載せる人などいないと思っていたが大著「更級日記の研究」で津本氏は両者を写真と地図に掲げている。何か感じるところがあったのであろうか。ただし、神社は「長妙寺脇の天神」とするのみであるが。

菊池古墳群をあげないで合点がいかないが、昭和57年の発行ということが影響しているのか。

 

古代東海道 下総の国① どこで上総・下総の国境を超えるか V2

上総、下総両国の国境は村田川。

現在は市原市千葉市の境となっている。

古代の人はどこで川を渡ったのであろうか。

古代東海道のルートを房総往還に重ねる人は以下地図中のAとする。

 

 

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ただし川が変化しているので村田橋は埋まり、新村田橋に移っているが。

 A付近を拡大すると

 

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元の河川位置は公園となり、記念の案内板も。

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私は内陸のB付近ではないかと考える。


☆Bあたりとする理由

 囲碁・将棋ではないが、次の手、その次の手と考えていき、それを現在とるべき手(ルート)に還元・選択していくべきではないか。

 歩き旅は点と点を飛び渡るものではなく、連続した線を丁寧にたどるしかないもの。

ある箇所でどうしても甲地点を通過せねばならないならその前に歩くべき線は決まってってくる。それを乙とするなら、その前に歩くところも決まってくる(丙)。

 

 荷物を携えて長距離を歩くのは難儀そのもの。誰でもが、少しでも近道をしたい。

 平地での近道とは何か。最短距離は2点を結ぶ直線性しかないだろう。

高速道路のルート選定と古代の官道がなぜか近いというのもそんなところにあるのではと考えている。

 千葉の河曲駅(駅制)から直線性に留意しながらさかのぼりながら見ていくと自説では☆Cあたりまでくる。

そのあたりは律令制が敷かれる前、菊麻豪族の支配下でもあった地域である。古墳その他の遺跡も連続している。もともと人が往来し道ができていただろうし、そこを官道に指定してもおかしくないと考える。

 

 ただし村田川と浜野川にはさまれたBとC点の間、特に茂原街道(バイパス)北側は2021年現在でも低湿地というか荒れ地状態のところが多く、この箇所の確固たる旧道は認識できない。

( 更級日記に低湿地帯武蔵国の藪漕ぎ描写があるがここ千葉の風景を拡大したような状態であったのかもしれない。)

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その時々の改変が多い、一種刹那的利用がされていた道路だったかものかもしれない。

 次の地図に橋名は出ていないがとりあえず菊間古墳群の真下にある現「長妙寺橋」を渡って千葉市南生実町(みなみおゆみちょう)をめざして北上することに。

ただしわかりやすさの点からは左右の大きな古町橋や古市場橋を渡った方が得策かも。何しろ明治期まで橋はかったのだからこだわる必要はなかろう。

 

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上総の国⑫の5 菊間最終: 阿波能須神社と菊間藩陣屋跡

菊間でずいぶんかかったが、最後に気になるところを2か所。

其の1

菊間国と言ったら豪族→律令制下での国造と古代の話で終始するだけかと思っていたらなんと江戸末期から明治初期にかけて菊間藩の存在も話題になっている。

藩主は老中にもなっている水野氏の一族らしい。

菊間という地名の現役としての驚くほどの長寿に驚く。

菊間藩の陣屋跡が残っている。(後記)

 

 

其の2

安房にも関連するらしい阿波能須神社がある。

こちらか始めよう。

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左下ガスタンクの先二つ目の右折道路に入った。

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それにしてもせっかくの遺跡のそばに下水処理、県営団地、ガスタンクと景観を台無しにするようなものを作りすぎてはいませんか。景観どころかその工事自体でかなりの遺跡を削り取っているようだし。

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狭く極端に曲がりくねった一車線。歩きか自転車かせいぜい軽自動車でないと。

逆に言ってその道のありかたが古代の雰囲気を残してくれているが。

既出地図中星印をつけたお寺の北方と把握するといいかも。

狭い路地の目の前に突然現れた。

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どうみてもおかしい地形。周りを削り取らないとできないのではないか。

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この神社のいわれ等については紹介するブログも結構あるので参考になろう。

 

 菊間藩の陣屋跡

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wikipediaの下の説明では簡略に過ぎるが、まさか徳川家達や沼津藩の名前が出てくるとは思わなかった。

 

明治元年(1868年)5月、徳川家達駿府藩に移ったことにより、それまで沼津藩主であった水野忠敬の所領5万石のうち2万3700石が上知となったため、その代わりとして上総国市原郡菊間において2万3700石が与えられたことから菊間藩が立藩した。忠敬は新たな藩庁の建設や藩校の創設に尽力している。明治4年1871年)の廃藩置県で廃藩となった。

 郷土史家にかなうものなし → 菊間藩

場所は例によってわかりにくい。有名だからすぐわかると思うのは軽率!

冷泉家樋口一葉旧宅でも皆そうだった。

千光院のすぐそばと思う方がわかりやすい。

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陣屋跡は長方形の敷地。ただしこの石碑は誤解する人もいるようだが戦争で亡くなった人の慰霊塔。

 

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むしろ道路の反対側にある石碑の方に水野公の名前が出ている。

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 この藩主、短い期間だったが、かなりやる気のあった人らしく、また沼津から移住してそのまま住むようになった旧藩士も少なくないようだ。現菊間小学校は当初旧藩士が教師になったらしい

 それにしても150年はちょっと前のこと。顔を見知っている人の話があちこちから出てくる。末裔といってもさほど古くないが、実業家出身で著述家になっている人もいる。

上総の国⑫の4 あたりの雰囲気と菊間天神山古墳 

 北野天神山古墳と菊間天神山古墳があり、紛らわしい。

後者について周りを探したが見当たらない。 その過程でさまよい、地域の雰囲気もつかめたが。

普通の農家らしい農家もあることはあったが多くはない。

豪農、お金持ち、普通の市民の家がポツポツという感じ。

 大型太陽光発電基地が目立ち始め、それを憂うる人もいるようだがパネル架台は基礎が浅くいつでも現状復帰が可能。むしろ、立て混んだ狭小建売住宅の方が問題に思う。

 とにかく千数百年以上の歴史を持つゾーンなので道が狭く、ところどころタイムスリップして過去に引きずり込まれるような印象を持つ個所もある。

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 これって、四国遍路でも同じ思いをしたことがある。女性はもちろん、男性でも一人歩きだと怖いと思う道の入り口がなんか所かあった。

 

 

菊間天神山古墳がわかりにくいのはいったん台地を下がり間に広めの道があるからだった。地図をしっかり見ながら歩けばいいのだけど。

探索するときは歩くに限る。妥協しても二輪車限定。自動車は向かない。

 

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排水処理場という古代のロマンにふさわしくない施設を見下ろす形で存在している。

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夕刻近かったが、たまたま道幅あるところを見つけて実踏等へ。

 

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周囲には縄文後期から平安末期にかけての遺跡が多いとのこと。1500年どころではない。

平安京中流貴族など新参者だったわけだ。

長い間にわたって土地の人が歩いた道は官道が規定される前からあったわけで

獣道を超えるレベルであったはず。

この立て看板の脇から登ってみる。暗く急峻でちょっとしたミニ軽登山。

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鳥居があった。こちらが本来の入り口か?

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降りてみたが私有地っぽいので引き返した。

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西側(館山道)側から入ろうとしても案内表示がなく極めて分かりにくい。

目印をお教えするとしたら宣伝看板があるここぐらい。

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狭いどぶ化した水路脇に石柱があった。

市原村と古市場の地名が読めるが明治以降の新しいものと思う。

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石に刻めば永年持つと思う人が多いようだが、想像以上に劣化は進み、文字の判読不明は早い。四国でも遍路関係の古い石柱はほとんどが判読不明だった。

しかるべきところに紙文書を保存したほうが永らえる。あるいは土を盛るなど,形態で意思を表すなど。



 

上総の国⑫の3  北野天神山古墳と東関山古墳

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三者は近い。特にbとcは至近距離。なお、文献によれば新皇塚古墳(古墳前期)はほぼ消滅とある。

 

b北野天神山(権現山)古墳   前方後円墳90m? 古墳中期 

c 東関山古墳       前方後円墳90m? 古墳中期

a 姫宮古墳        前方後円墳52m  古墳後期

 

北野天神山(権現山)古墳

 隣家が迫っており、その所に木柱がたっている。

 

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見やすいように姫宮古墳同様立て看板にしてほしい。冊子で見た上の内容と違う。

 

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このあたりのスロープが何とかなりそうなので登ってみる。

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手を付けていない古墳、陵墓には極相となる常緑広葉樹がのこることになるがこの根は直根で深い。松などとは段違い。

未盗掘の石室があっても根で変形、破壊される危険性が大きい。

私見だが根が深くならない樹木あるいは芝に変えてほしい。もっとも千年以上にわたって土砂崩れを防いできたであろう功績は大きいが。

 

車が止まっている左が北野天神山古墳。正面すぐが東関山古墳とお隣さんだ。

 

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東関山(とうかんやま)古墳

ぎりぎりまで道路、あるいは民家。

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よく見ないとわからないが左に回るとあった。

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登ってみる。道路が接近。

 

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このあたり、写真は載せないが湘南の高級別荘、京都東山に財界人が持つような庭園も垣間見え、不可思議な感じがする。

上総の国⑫の2 新皇塚古墳

ドキッとするような名称だ。

紹介する文字情報は多い。

一例

ここにあったとされる石造物が上総国分寺境内にある。

 

が、新皇塚古墳を明示する写真はほとんど見当たらない。

団地建設で削り取られてしまい、立木以外そもそも遺跡というものが残っていないのだろうか。

現在は市境、古代にあっては国境になる村田川を見下ろすような絶景の角地に立地している。

前は団地との間の急峻な高度差のあるのり面

後と横には民家がへばりつくようにくっついている。

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近づけるのは多分この1ルートでは?

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上総の国⑫の1 姫宮古墳

姫宮という乙女チックの名称に惹かれる。

車で行く場合、みどりのは葉記念病院の脇からその名も「菊間通り」に入り数分のところにある市原菊間郵便局のところで曲がって入る。

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すでに郵便局の背後に見える森が、暗く、深くなんだかパワースポットというか引き込まれそうなアウラを感じてしまう。

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何の標識、案内もないがこの坂道に入った。なお、平坦に見えるがかなりの急坂。

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道が狭くとにかくわかりずらい。

右前方の木立が怪しい感じ

 

 

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近づき、民家の脇を住居侵入しているような雰囲気で接近。

あった。

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未発掘51mの前方後円墳か。

中に入って歩くことも何とか可能。

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看板の図示だと遺跡が密集し、眼前の県営住宅団地によってすでに数個の円墳、方墳跡が消滅していることがわかる。

 

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もう一遠景を見ると樹木が前方後円墳の形になっているのがわかる。

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上総の国⑪ 菊間古墳群と国造

土木学会論文集D22vol69にある小方武雄氏の次の一説には強く賛同したい。

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直接は神奈川県での古代道について中原街道説ではなく246号説を採る論拠として挙げるものであろうが氏も言うように他の地域での比定にあたっても十分に根拠となるものと考える。

更級日記古代道のルートで上総から下総にわたるゾーンで重要なものが現市原市菊間町にある菊間古墳群であろう。

その中身に入る前に今回数度にわたって訪れて驚いたのがいまだ手つかずの前方後円墳が至近距離にいくつもあることだった。

浅学不勉強な小生、明日香村に行かないとこんなことはあり得ないと思っていたが東京から遠くない千葉市南端に隣接するところに古墳がゴロゴロしているとは全く知らなかった。

このゾーンはぜひとも乱開発される前に自治体で買い上げ等の処置を講じてほしいと思う。

まずは航空写真から。

狭いところにいくつもの古墳が。

 

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この古墳については以下の市原市埋蔵文化財調査センターの解説がわかりやすい。

(以下引用)

  菊間古墳群には現在もいくつかの古墳の墳丘が残っており、墳丘の測量調査が実施されているほか、部分的な発掘調査が行われています。現時点でわかっているだけでも、前方後円墳3基(北野天神山古墳・東関山古墳・姫宮古墳)、前方後方墳1基(新皇塚古墳)、円墳13基、方墳33基、と総数50基にのぼります。古墳群周辺の発掘調査では墳丘を失った古墳が多く見つかっているので、もともとは大小織りまぜて台地上にかなりの数が展開していたようです。

 

また、国造、菊間の国については以下に

(以下引用)

 ククマのクニノミヤツコ
 文字に記された歴史より昔、いまの市原市にあたる地域には上海上(かみつうなかみ)と菊麻(くくま)のクニがありました。上海上養老川流域、菊麻を村田川流域に当てるのが定説となっています(この地名と同じ音は8世紀はじめ成立の古事記に記された「玖玖麻毛理比売ククマモリヒメ」という人名にも見らます。ククマがどこかの時点でキクマに変化したのでしょう)。
 このククマの地には、のちの時代に国造(くにのみやつこ)と呼ばれる有力者がいました。それは国造本紀(こくぞうほんぎ)という古文献に記された各地の国造の系譜に名前のあることからわかります。菊麻国造は大鹿国直、上海上国造は檜前舎人直(ひのくまとねりのあたい)とされており、国造本紀が編集された7世紀の時点で、各豪族の主張する系譜にある人名が採録されたと考えられています。

上総の国 ⓾ 菊間・村田川へ

さて、山木交差点から先、どう進むか。

左折し、八幡地区へ進み房州往還道を進むとするのが多数説かもしれない。

ここで道路技術系研究者の発言も頭をよぎる。

一は、武部健一氏(元建設省道路公団)の「高速道路と古代道路の共通性というものに気づき~

 (古代の道 吉川弘文館2004年)

一つは、 元神奈川県県土整備部長 小方武雄氏の次の記述

 「今までに採用された視点に加え、新たに古墳や地域の豪族、延喜式に掲載された式内社、直線道路のさらなる活用などの視点を加えて検討を行った。

 (PDF資料 神奈川における駅路に関する一考察)

 

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結論から言うと自説は古墳や地域の豪族菊間国造、直線道路のさらなる活用、村田川以北で選択するルートなどの視点を加えて高速館山道に沿う次のようになった。

以下続く

 

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