古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

芥川賞・直木賞と女流作家

両賞受賞者4名中3名が女性

このところそういう傾向が強い。

女が半数なのに地位の半数を得ていないのはけしからん、などという必要はないでしょう。

 

女性枠をとかいうのはそもそもおかしい。

 

ワクチンの効果,副反応を見てもわかるように生理的その他で想像以上に異なる点がある。

文学への適性について女性の資質に軍配が上がるのは紛れもない事実。

 

紫式部も菅原の孝標の女も今回の3名の受賞者もその証左。

 

それにしても今回の皆さんは高学歴だ。

 

有名大学、大学院、外国留学など。

 

うわべの学歴ではなく、正倉院資料など古代の資料にあたることを習いとするなど半分学究者的な人もいる。

 

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お一人が行っているというハイデルブルク大学。

 

観光で行った私です。

古代東海道・更級日記の道 下総の国⑫ 狐塚古墳v2

 

既出の下記報告書(*)の3ページ「序章 遺跡の概観」第1節に短いがきわめて印象深い一節があった。

「 古墳の分布をみると海岸平野に面した台地の縁辺は、早くから開発されたため分布は極めて希薄であるが、千葉寺地区遺跡群の2.5㎞南にはかって狐塚古墳という全長50mの前方後円墳が存在した。

 狐塚古墳は測量図もないまま湮滅したが、前方部の低い前期型の墳形であったという。

また、都川に臨む台地の北縁には千葉大学亥鼻地区構内遺跡の古墳群がある。」

 

 *都市基盤整備公団と財団法人千葉県文化財センターによる平成16年3月付報告書

 

そして4ページの地図には「18狐塚古墳」の場所が記されているが、なんと前に雰囲気が怪しいと書いた県立生実学校キャンパス付近ではないか!

 

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ところが、狐塚古墳についての報告書(以下昭和40年報告と述べる。)があり、それを閲覧できることになった。

 

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しかし、昭和40年報告の内容は以下のとおりで上記平成16年報告の内容と合わない。

 

・もとは台地の突出部分であったものが明治29年房総鉄道会社(現JR外房線)が蘇我~大網間の鉄道敷設工事のために切断し、独立丘となったもの。

・狐塚の南方約220mの箇所にテント塚(県立生実学校校庭)と称する小円墳があるが先年封土の3/4が削平された。

・まもなく古墳を含む丘陵全体が採掘によって全く平坦地と化し、住宅用地にされる予定

 ・全景写真のほか測量図も付記されている。

 

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平成16年報告記載箇所は、鉄道で分断されていない、削平されずに台地のまま、何より生実学校北220mという記載に合わない。

両報告の内容は合わないが、この場合、当然実際に緊急調査し写真や図面にとっている武田氏の記載を受け入れるべきだろう。

 

ここで、私が気が付いたのが次の点である。

2021年現在の一般的な地図に狐塚公園という小公園が載っている。

台地上の2校よりだいぶ北に位置するが何らかの関係、因縁があるのではなかろうか。 

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そう思っていた矢先、図書館でたまたま古い地図を見ると、その狐塚公園あたりに等高線が入っている独立した墳丘が目についた。

 

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武田氏はこれを生で見て写真に撮り、図面にも書いたのであろう。 

 

 

昭和40年報告で武田氏が述べる次の記述に符合する。すなわち

国鉄蘇我駅から東南に走る房総東線が海岸平野を抜けて最初に洪積層台地を横切る。

国土地理院発行1/25000蘇我によれば、標高20mの等高線を回らす。

 

現地を見に行った。

完全に平地化され、住宅が並んでいる中に市街地でよく見る小公園があった。

              

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元の台地を分断する鉄道のほかに高速道路(奥に見えている)も通るようになっている。

 

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分断される前、台地の一部であったことは線路北側に見えるマンションの立地(高台)や同じく線路北側に残る緑地(遠くに淑徳大学が見える)でかろうじておしはかることができる。

            

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狐塚公園と命名したのも狐が出ると言われてきた古墳を削平したことへの鎮魂のための配慮であろう。

昔何かのアニメでビル屋上にあった狐の祠を取り壊して祟りを受けるというものがあった。狐が出るという伝承があった古代人のお墓を経済的利益追求のために削平したのだからアニメと似ている。



古代東海道 下総国⑪ 観音塚遺跡報告書と現況

千葉市観音塚遺跡(千葉寺地区遺跡群)について

 

 千葉寺は12世紀に観音塚あたりからから引っ越してきたという伝承もある遺跡についての報告書である。

観音塚という名称はあちこちにあるようなので千葉市観音塚遺跡と言った方がいいのかもしれない。また発掘調査の進展につれて近接箇所に複数の遺跡がみられているので

千葉寺地区遺跡群とも言うようである。

 

  内容については、次の写真の都市基盤整備公団と財団法人千葉県文化財センターによる平成16年3月付報告書に詳しい。千葉県立中央図書館で閲覧できる。           

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掲載されている観音塚遺跡全景写真は次のとおり。

 

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付近の遺跡関係図は次ぎのとおり。

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当方で2021年春に撮影した現況写真は次のとおり。

整った住宅地に変容し、遺跡跡ということは全くわからない。

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線路の向こう側(西)に集合住宅が見えている。

 

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道路左側は傾斜してくぼ地となり報告書の写真に近い形態のまま公園となっている。

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公園はほぼ当時と変わりがないようなのでそこらへんに遺跡の範囲と名称図を案内したらどうだろうか。古墳=墳墓であり、敬遠したくなる気持ちもわかるがこの遺跡は次のように古代人の生活の場であり住宅地が古い歴史を持つことはむしろ価値向上に連なると思うが。

 

「観音塚遺跡が最も発展するのは奈良時代。前代から倍増して103棟に及ぶ竪穴住居跡があり、注目すべき遺物も多い」「遺物には和同開珎,銅製帯金具、硯、畿内産あるいは畿内系土師器など役人や役所に関連する遺物が目立った」そうです。

出土した「子驛□」の墨書土器は付近に駅家(千葉郡河曲驛)があったことを示唆する遺物である、 とされています。

 

追記 第4図「遺跡の範囲と名称」で図示されている地蔵山遺跡は開発前の写真による  

   と実際に大網街道両側にまたがる小高い丘状の地だった模様。現在最も標高が高

   い道路北側は住宅展示場になっている。

 

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出展はこちら

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古代東海道 下総国 ⓾ 千葉寺跡と青葉の森公園、荒久古墳、観音塚遺跡

「千葉県の資料」に「114千葉寺跡」という項目があり、更級日記への言及もあるので紹介させていただく。(この項著者 糸原 清氏)

 

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発掘調査すると必ずや?その報告書が出るようであるが、下手な市販の案内書よりずっと広く深い。

 この№114も千葉寺跡さらに近隣の公共工事に伴う報告書をベースに取りまとめたものであろう。

公共工事とは

・かってあった畜産試験場が筑波に移転し、そのあとに広大かつデラックスな青葉の森公園ができたこと(都立公園よりよっぽどお金をかけている)

・この公園周囲にはそれと合わせて高級な戸建て住宅街が住都公団によって開設されたこと

(付近に多い国立、公立、私立病院医師の居住希望が多いらしい)

・この先遠方に他の住宅団地ができることに合わせて鉄道も敷設されたこと

・関連して旧来の歴史ある街道の廃止や付け替えも行われたことなどである。

 

添付地図の公園と鉄道の間だけでも4か所の遺跡名がみられるが鉄道の先にはさらに多数の遺跡がある。

 

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項目「周辺の遺跡」(引用)

 千葉寺周辺は下総国千葉郡池田郷(いけだごう)に比定される。

 上総介(かずさのすけ)の任を終えて都に帰る菅原孝標孝標一行が,両総の境を越えて宿泊した「いかた」は当地周辺に比定される。

また、古東海道の河曲の駅家(かわわのうまや)を千葉寺北西約1.5キロの葭川(よしかわ)下流付近に比定する考えもある。

 千葉寺の南西約0.9キロの蘇我ひめ神社は延喜式内社に比定される。

 千葉寺の東約0.5キロの荒久古墳は一辺20mの終末期方墳、荒久古墳と接する荒久遺

跡や~遺跡では8世紀以降の方形墳墓群も発見されている。

 周辺の集落遺跡については~遺跡で弥生時代後期から古墳時代の集落跡が、

千葉寺谷を挟んだ南東約0.5キロの中野台遺跡や鷲谷津遺跡、観音塚遺跡などで古墳時代から平安時代の大規模な集落跡が発見されている。

 このほか、南東約1.3キロの大北遺跡からは堀立柱建物群とともに畿内産土師器などが大量に発見されている。千葉の国造 大私部直(おおきさいべのあたい)一族の居宅跡で、公的施設の補完的機能を果たした建物群と想定されている。

 

 糸原氏は最後に千葉寺について

「草創の地が谷向の観音塚周辺 という異説がある。

 草創伝承地周辺の観音塚遺跡からは、現在までのところ該当する遺構は発見されていない」と記している。

 

古代史(文献史学)と考古学

「千葉県の歴史」という電話帳というか広辞苑のような分厚い本があった。

 

          

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社史のような自己礼賛の書と思ったらとんでもない体系的良著だった。

網羅的内容で研究者にも、専攻する学生にも、私のようなにわかファンにもとても参考になる。

本のことは別に述べたいがここでは挟まれている、おまけ的な「しおり」について。

(書いているのは東大教授左藤 信さんで「考古学が語る奈良・平安時代」という題名)

 

 

以下引用

最近のめざましい古代史研究の進展は、考古学的な発掘調査の成果に大きく支えられている。

主に古代の史書によって構成されてきたこれまでの古代史像が時に書き改められてさえいる。

 例 千葉県市原市の稲荷台1号墳出土の【王賜】銘鉄剣や埼玉古墳群稲荷山古墳出鉄剣の銘文による5世紀代大和王権の歴史構造についての新知見

 

しかし時代が降って文献資料が量的にも質的にも豊富に伝えられている奈良平安時代

古代史像と発掘調査成果との関係となると、古代史と考古学の協力のあり方はやや違った形になってくるように思われる。

特に狭義の文献史学が残された史書・記録から資料批判の方法で国家・社会構造の全体像を明らかにしようとする一方、考古学は検出した遺跡や出土した遺物のモノに即して時代順の変化を把握する方法で社会・生活の実像に迫るということになろう。

 そして研究対象の性格として、前者の文献資料は中央政権に偏って伝えられ、後者の遺物は日常的な断片の域に留まるという側面も指摘できる。

こうした両者の学問体系の違いを無視して無前提に他方の説に乗りかかって安易に「利

用」するといったことは研究の成熟とともに慎むべきことになってきている。

 

 上の引用は数分の一。スキのない整った文章だ。

古代東海道 下総国 ⑨ 千葉寺と千葉寺廃寺 その2

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この本、単なる観音巡礼の案内本かと思ったら、そうではなかった。

他の公的解説本には載っていないことが記されている。調査能力、努力に敬服すべきものを感じる。

             

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千葉寺の盛衰につても以下のように記述されている。

 ・縁起とは天和の頃編纂の「千葉寺縁起」。それによると

 ・創建後450年、二条天皇の永歴元年(1160年)雷火ため焼失し、現地に移転。

 

(現在、寺の東方1キロのところには「三界六道観世音旧跡」と記した石碑がある。) 

 

・千葉氏第二十代は1568年海上郡を永代寄進し武運長久を祈願したという。

・寺領も千葉村一円を統括したが、その後織田信長によって1/10に減らされた。

・1590年、家康は御朱印地100石を寄進し,18坊を有するなど繁栄を極めた。

・1689年、火災で一山烏有に帰した。

・1806年には門前百姓佐七方より出火し、本堂をはじめ諸堂宇を焼失。そして本尊も遂に火災にあい、現在の本尊は1808年造顕現、1828年本堂を再建復興したもののこの後も1852年出火し、庫裡、客殿など悉く灰燼に帰す。

明治維新当時は寺領も没収され、住僧もなく、船橋本覚の兼務になったが、村内の有志によって土地の払い下げを請願し、土地を得て復興した。

・しかし、また戦災にあった。

 

 

なんだが惨憺たる被災の連続という感じがする。奈良朝の廃寺のほかさらに近世にあっても廃寺があったかのような気がする。

火災の連発というのは比叡山でも高野山でもあったようで木造建築の宿命の感じがする。

現本堂が鉄筋コンクリートになっているのもやむを得ないのではと思う。

 

なお、著者は1キロ先から引っ越してきたとの謂れについて多数説同様埋蔵物の瓦のことからも疑問を呈している模様。これについては観音塚のところで述べたい。

 

ここで注目したい点があるので触れたい。二次大戦の空襲で焼失する前の地図によると道を隔てて二つのお寺の印と寺名が載っている点だ。

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警察関係の地図で信頼性は高い。

 

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大網街道に面して左側に千葉寺観音堂(現在の千葉寺)、右側に千葉寺とある。いくら間に公道があっても同じ宗教法人?なら一つとして扱うのではないか。

その地図右側の現況は民家となっている。さらその先は公的施設のハーモニープラザが

建設されている。

半減しているような印象を受けるがどういう理由なのだろうか。

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1160年、1キロ先から移ったのではなくより近い隣地から移っということはないのだろうか。

なお、寺の東方1キロのところには「三界六道観世音旧跡」と記した石碑がある。とあるがその痕跡は全くうかがえない。どこかで保存しているのだろうか。石碑の写真を見たいものである。

とにかく「観音塚」なるものがキーになるようだ。

 

古代東海道 下総国 ⑨ 千葉寺と千葉寺廃寺 その1

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 国分寺より前に豪族に建立されたお寺があります。下総では現市川市真間町にある弘法寺(葛飾郡)と現千葉市千葉寺町(千葉郡)にある千葉寺(上の写真)です。

 しかし、ちょっと本を読んでいると千葉寺廃寺という文字も出てくるのです。

全国にある国分寺は大体当時の旧国分寺跡あるいはその付近に建っていますが国分寺廃寺という文言は使っていないようです。

市原市光善寺もそうですがなんで光善寺廃寺とか千葉寺廃寺というのでしょうか。

千葉寺に行ってみました。

まずはこの説明版。一般的なものでしょう。

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しかし入ってすぐのところに次の説明があり、驚愕です。

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東方約1キロの観音塚に建立されたものが1160年,雷火による火災で当地に移転したとあるのです、

 ならば709年から1160年の400年にわたって位置していた旧所こそが本来の千葉寺であり、それを千葉寺廃寺というべきことになります。

しかし、奇妙なことに現千葉寺を掘削調査したところ奈良、平安時代の遺物が出たというのです。

とすると A 1キロ離れたところにあったお寺

     B 現境内付近から発掘されて判明した古い奈良期の旧寺

     C 現千葉寺 

の3寺があることになってしまいます。AとBは年代的に重複しておかしいことになります。

篠崎四郎氏は著書(「房総の史跡散歩」昭和62年国書刊行会 72ページ)で次のように書かれています。

以下引用

 この地に上代寺院があったことは昭和の初め境内から奈良朝の布目瓦数かけらを拾得したことからもわかっていましたが、その後に國學院大學大場博士や近接の千葉一高武田教諭などの発掘調査により明確になりました。

 その鎧瓦と、のき瓦のあるものは筆者が昭和7年ころ市原市武士台で採集した遺瓦と同一紋様で、何らかの両地相関を思わせます。この二つの寺はおそらく大豪族の私寺(氏寺)のようなものでありましょう。

そして、大胆に結論付けている。

この奈良朝寺院が千葉寺と連結するものでなく、廃寺跡に後世密刹が造営されたとみるべきでありましょう。

篠崎氏の次の記述は考古学的理解とともに深い歴史学理解が必要なことも教えてくれます。

鎌倉時代から千葉氏の信仰するところによって盛大となりました。坂東33か所観音霊場に加えられるに至ったのも、鎌倉との親縁に由来するものでしょう。坂東札所の創設が西国33か所観音霊場にならって鎌倉時代におこったことはその配列順序を見れば一目瞭然です。すなわち第1番を鎌倉東部の古刹逗子杉本観音から始め、関八州名刹を一巡して最後を房州那古観音で札納めとし、船で三浦半島にわたって鎌倉へ帰着という仕組みになっています。

 

    (略)

本堂は米軍の空襲で焼失、その時に本尊の観音巨象も滅して今はなく、本堂前の大イチョウだけが来し方の歴史を物語っています。

古代東海道 下総国⑧ 千葉寺、亥鼻方面への道選択 v2

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 市原市からずっと海沿いのルートを考えている人は上の地図でも☆1の房総往還を選ぶことになるでしょう。

 私は内陸寄りの☆3か4か5を選びます。と言っても☆1からの距離はわずかで歩いて10分程度。

☆1は357号湾岸道路沿いの海近くです。近すぎです。千年前果たしてどうだったかわかりません。(手前左右の道路と直交する写真中央の道。バス停だと稲荷町中央)

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ここら辺は海抜が低く3m以下。2019年関東をおそった台風もしくは豪雨で道路アンダーパスは冠水し交通がとまた箇所が散見されます。

 房総往還はこの先、都川にぶつかり、大きく右に曲がることになります。橋を架けることなどままならなかった昔、海に近い河口付近はリスクが大きかったと思います。

古代道で必要とされる直進性は☆3,4,5が圧倒的に優れています。

この先池田郷を考える上で必須の千葉郡の中心亥鼻の台地にもそのままつながる点で、また、709年創建の千葉寺に近い点でも☆3,4,5を採りたいと考えます。

 このうち高度は3,4,5の順でたかくなり、3は末広街道と変わりのない低高度です。

☆4は道祖伸があったりして風情がありますが道が狭すぎ租税を運ぶ官道にはなりえません。

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 というわけで☆5を進むことにします。もっともこの千葉寺三叉路でつながりますが。

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では、最近撮った写真で歩いてみましょう(2021,6,25)。

 

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右側の道を選択

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千葉寺町公園。だんだん高くなっています。

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千葉寺三叉路が見えてきました。大網街道にぶつかります。

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民家の後そして右手の木々は千葉寺です。この奥の方角数百m先に千葉寺とセットで考えるべき重要な荒久古墳があります。

大網街道を左折するとすぐに中村古挟記念病院があります。

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余談ですが創立者夏目漱石門下生で東大を出た後医大に入り主に精神科の治療に定評のあった病院です。

あの中原中也も神経を患い入院したことで有名です。中也は海を見ながら療養に過ごしたわけで、海を見通せる高台が人の心を和ませたことに千年の差はないのでしょう。

次回はいろいろとある千葉寺について。

 

更級日記‣上洛の記千年(武蔵野書院)

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ちょっと前にこの本の出版を知り、気になっていた。

更級日記というと、上総国府はどこにあったか,「いまたち」とは?と謎解き面ばかり

が強調されているきらいがある。

本質・本籍は文学であろうに。

 

定価税抜き11000円とお高く、なかなか手が出なかったが図書館開架コーナーにひっそり並んでいたのでびっくり。

 

なかなかいい。本質は文学であることを忘れないでいる。

 

二人の編者 和田律子教授と福家俊幸教授の采配、そして武蔵野書院創業100周年記念に選んだ会社の高配は高く評価されるべきと思う。

 

 書店院主の「土地には目に見えない何かが潜み、その重みと深淵を理解できるのは、その土地に対する深い愛着と身についた勘をもった土地の人々なのではないか」との発言

 福家教授の「本書の最大の特質は、歴史学と文学と融合にある」とのあとがきに深く感じるものがある。

 

一般的な古典ファンには手が届きにくいだろうが、内容からいって全国の図書館と文学部図書館(室)には標準的な蔵書になる気がする。

そう考えると経営的にも価格設定は的外れでないかもしれない。

 

東京芸大助教授であった太田聴雨のカバー絵もイメージぴったりで秀逸。さすがに市原市のキャラクターも太刀打ちできない。

 

増刷の時は表紙絵を拡大するようお勧めする。

古代東海道 下総国⑦ 南生実橋から千葉寺駅前リブレ京成まで V2

前回の南生実橋交差点風景の写真には廣照寺が見えている。

この先、右側にある八剣神社、埋蔵文化財調査センター、大覚寺山古墳についてはすでに述べているので省略。

道の雰囲気をお伝えする写真は次のとおり。基本的に台地の周縁に沿って進んでいる。

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生実町5差路を過ぎ、左に見えてくるのが本満寺

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雰囲気はよかったが人気がなく、鐘楼も建屋しかないのが寂しい。

 

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 このお寺のすぐ先に見えている3階建てコンクリート?が大覚寺

謂れを記す案内板は傷んで判読不明。

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大覚寺の先すぐに生実池交差点があり、生実池が見えてくる。

大百池同様、かなり大きな池だ。

 

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生実橋を通過すると右手の台地が見え、迫ってくる。

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直感的に怪しさ、気配を感じる。

少し先に行くと県立学校2校の入り口があった。

この時はそれで終わったが、後日この箇所について重大なことを知る。これにつては千葉寺のところで述べたい。

 

高速館山道(またしても!!)の下をくぐり、JR外房線の踏切を渡る。

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このあたり、右側は鵜の森、左側は蘇我町!となる。


そして道路を進むだけではわからず、迷うことになる箇所にぶつかる.

それはここ

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変形Tの字交差点で、左の南税務署方向へ行けば海側。傾斜もかなりあり、

かってはすぐ海だったと思われる。

右に曲がるとそのまま直進してしまうが、それでは内陸部中央に進んでしまう。

地図をよく見ればわかるがかっては☆1から☆2への直線道路であったものが後により広い末広街道が開発されたことにより、それに合わせて分断されたものと推察する。

 こういう道路付の場合、分断された細いほうが旧来の道と考えられ、逆にそのことの立証にもなると思っている。

したがって、右折してすぐ、鵜の森交差点を左折することになる。

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この先も、うっかりしていると間違う。私も二度くらい間違った。

二股に分かれるところで末広街道から蘇我中の下の道に入る。

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そうすれば風情のある由緒正しい怪しいルートになる。

なお、ここは一方交通なので車で来る人は逆方向から。

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 この斜面の緑地帯はかなり続く。海を見下ろす上の部分はどうなっているのか気になり、上がってみると団地街だった。

建設は相当前のようだが当時の埋蔵物関係の記録はないのだろうか 。 

 

 進むとだんだん市街地になっていくが先が見えないくらい遠くまで見事な一直線。

珍しい。

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途中の菰池公園にはSLが展示されている。

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京成千原線千葉寺駅前までやってきた。

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この鉄道の敷設は新しく、建設に伴って駅や線路付近におびただしいほどの遺跡が

発見・発掘されている。

開発に伴い、歴史的遺跡の破壊と発見双方が生じている。

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