古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 武蔵国⑥v2 別の道で谷中霊園(豊嶋駅家)へ

(末尾に追記があります)

 現在地から目的地へ行く場合に、出発箇所ではいくつかのルートがあるとしても目的地近辺の都合から遡って出発ルートの選択が限られる場合もある。

思考経済上も目的地近辺の(歴史的)地理を見ておくのが有用に思う。

 

江戸時代はつい最近のこと。

なにしろ渋沢栄一のお孫さん鮫島純子さん99歳は先日2022年1月23日に講演しているが、彼女が10歳まで栄一は生きていたのだ。令和に生きる人がかっては江戸時代どっぷりの人と10年間共存していたことになる。

ところで、江戸時代までは西洋的近代的な土地に深い傷を与えるような国土改造はまだ少ないのでその当時の状態はさらにはるか前の時代を考えるのに参考になると思われる。

江戸時代は当然文字のある時代で書物も多くその点での遺物、遺跡は多く有用だろう。

こういった観点から前回の大関横丁から谷中のルートについてもう一度考えてみたい。

 

その前に出発地点である交差点の大関横丁なる地名が気になった。相撲取りが住んでいたとか?

 まず、最初に目に入ったのが台東区立根岸図書館裏に立つ都営アパート前のこれ(二つの区入りくんでいてここは荒川区)。

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奉行にもなった3千石の旗本池田屋敷跡とのこと。なんでこんなところに

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明治通りを挟んで北側には対馬藩主宗氏の下屋敷があったと書かれている。

予想は覆された。ここら辺は場末ではなく大名屋敷が並ぶ一種の高級住宅街であったようだ。

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東京都公文書館がいい絵図を公開している。

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道路の北側に宗と大関両家が読める。南側が半分消えているが上記説明にある池田であろう。

大関とは相撲取りではなく現栃木県大田原市にあった黒羽藩主。

大関増業については情報が多い。

そうそう、奥の細道芭蕉が最も長く半月近く居候したのが黒羽藩城代家老宅。その家老の禄高は500石とのこと。3000石の旗本とはどれだけすごいかわかる。

大関の左にあるのは伊予新谷藩主加藤、上に見えるのは伊勢亀山藩主石川。

 

屋敷敷地は権力者の変更に伴い明治政府に返還したわけで明治期の迅速測図原図では下図左のようになっている。四角い更地のよう。

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現在、跡(右)には病院、学校、都営住宅などが建っている。民間払い下げもあっただろうが。

政治権力の移動に伴う土地利用の変遷とでもいうのか、下総国の市川国府台などと似ている点もあって興味深い。

 

今回の目的地、谷中近辺の江戸後期から明治初期の道路付を見て見る。

現、日暮里駅から東に延びる直線的道路は見られない。

強いてあげればとぎれとぎれであるが図に付した赤丸の道程度。

ということは今ある道はほとんどが近現代の工作物か。

 

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(なお、図に付したアは天王寺。イは隼人稲荷神社と善性寺。右図にのみ記載あるウは     後述する。)

まれにそれまで道らしき痕跡のないところに古道遺跡が見つかったとされる場合もあり、江戸時代になかったから古代の道はないということは論理的にはない。

逆にあったとしても鎌倉~江戸期に作られたのかもしれず、即古代道ということもできない。現に江戸の末期、沼津から上総国菊間(現市原市)へ移った殿様は道路を作り、それが記録に残っているし。

私が最近思うのは1970年代以降研究・学者先生が声を大にして話されているという「古代道は思ったより幅広く、しかも直線性を有している」との点が強調されすぎているのではないかということ。

確かに都、畿内国府に近いところはそうかもしれないが全国津々浦々そうできるかいささか疑問に思う。現に21世紀の今でも国道の酷道ぶりと、それを楽しむオートバイや自転車ツーリング風景を視聴するたびにそう思う。荒れた時代には荒れた最低限の道路管理があってもおかしくないのではないか。

 そう思うとき上の図に星印を付した確固たる道に惹かれるものがある。

・台地上、天王寺の南隣安立院の脇と

・現鉄道をまたぐようにして台地下の反対側に位置する隼人稲荷神社・善性寺と

を結ぶ由緒ある道があり、これを芋坂と言っている。

隼人稲荷神社・善性寺前あたりで右折し、古い道を選んで道なりに進むと途中から日暮里中央通りに合流し、前述の池田屋敷跡の説明板の前に達し、200mで大関横丁に出ることになる。

 このルートのもう一つの魅力はほとんどが荒川区台東区の境になっている道を進む点だ。古来から国境、村境の道は現代人が思う以上に意味があるとされている。大関横丁(三ノ輪)から谷中霊園への道はこれで考えたい。

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隼人稲荷神社・善性寺あたりから谷中霊園までの道を以下に。

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ちょっと先を左折して芋坂へ

この左角にある団子屋は夏目漱石正岡子規田山花袋など文豪御用達。吾輩は猫であるに出てくる。

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橋ができていて鉄道ファン愛好の撮影場所になっているらしい。

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渡って右に行けば安立院、天王寺

左方向に徳川家墓地が位置する。

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追記 2022/1.30

 この芋坂に至る区境のルート、魅力があるが、途中の道があまりにカクカク曲がっているので少々違和感はあった。不自然ではないかと。

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地元の情報を拝見して音無川の流れと知った。

隼人稲荷神社・善性寺前の歩道下は音無川暗渠とのこと。

善性寺門の前の橋は弟に会いにやってくる徳川将軍が渡ったので将軍橋という。

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このレベルの川だと暗渠化される前の状況でも自然堤防が人の通る一般的な道になっていたとは言い難いのではないか。カクカク曲がっているのは田畑に水を引き入れるためにそうしたとの説もある。

ご近所の人が近道として利用することはあっても官道としての利用には不向きに思える。

利用するにしても大空庵の北側道路を先で左折せずにまっすぐ日暮里中央通りを進んで現日暮里駅近辺に進む方が素直な解釈ではなかろうか。

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 いくつも未発見の前方後円墳を発見している西日本の考古学の先生が、調査探索に出かける前にネットでの情報調査をすると述べていた(今,佐倉の歴博に移られたもよう)。

郷土史家というとどこか時間を持て余している年金暮らしじいちゃんばあちゃんの趣味遊びととらえる風潮があり、確かにその要素はあるが、何年も、何十年も現場を見ている人の嗅覚は鋭い。

区市町村の郷土資料館学芸員だって郷土史家に学問的裏付けを備えさせたようなものではないのだろうか。

 

とにかくここら辺は華咲くお江戸文化が江戸、明治から現在まで続いており、地元民の郷土愛は半端ない。しかも場所が場所だけにローカルな話かそのまま全国区の話になってくる。たとえば森まゆみさんの「谷根千」など。

そこらへんは次回以降にするとして今回拝見したものの一部を紹介させてただく。

 

ほのぼのブログ 芋坂(谷中): ぼのぼのぶろぐ (cocolog-nifty.com)

隼人神社    隻人稲荷神社|荒川区東日暮里の神社 (tesshow.jp)

  親父のつぶやき                           

 

古代東海道 武蔵国⑤ 大関横丁(三ノ輪)から谷中へ

 隅田川の渡し(白髭橋の少し上流か)で対岸石濱あたりへ渡河するまではわかるとしてその先がはっきりしない。

豊嶋の駅家が谷中とする説を前提として石浜から三ノ輪までのルートのついては前に述べた。大関横丁交差点付近については次のように考えている。

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明治通り三ノ輪2丁目交差点で右に曲がらずそのまままっすぐ東泉小学校の北側道路を進み昭和通りを越えて根岸図書館あたりに出る。

根岸図書館らの建物がなかったと仮定するなら先でぶつかるのが正庭(まさにわ)通りだ。正庭通(文書表現上は「り」を付さないのが一般)はその先を見ると常磐線を越えて荒川警察署あたりで現明治通につながる。

正庭通の名称に何かを感じてしまうが、昔の字名(北豊嶋郡字正庭)にちなんでつけた道路愛称とのこと。

 

 荒川区の道路管理についてのネット広報は素晴らしい。一般教養としても非常に勉強になるので閲覧をお勧めする。職員の採用区分的には土木職分野だと思うが、最近思うのが災害、防災はむろん、農業、園芸、流行の小屋づくり、ランドスケープ、歴史地理学、考古学まで土木の知見が不可欠に感じられる。 建築にスポットを当てすぎてはいないか。

 

 さて、昭和通以西、どの道で日暮里駅(谷中)へ進もうか。

正庭通を縦軸にして左への横軸的道路として7本くらいあり、迷うばかり。

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①は東日暮里一丁目交差点で左折する愛称「二ノ坪通り」。北すぎるだろう。

②も天王寺に向かうには北すぎる。

③④になるとその点は合理的になるが、朝鮮第一初中級学校キャンパスにぶつかって進めなくなる。しかし、この学校とその西にある公園の存在はかって、公的地域であったことの推定材料にもなるのでマイナスにはならないと考える。

④は南千住二丁目で考えたC路とほぼ水平であり、大関横丁交差点を捨象すれば連続しているとも考えられる。

 その途中にある東日暮里1丁目の東日暮里ふれあい館あたりはかなりの身分の旗本屋敷であったらしく、このことも古くから開発されていた地域の証左になりプラス材料となろう。

 ④の道を西に進めば日暮里公園西側の道につながり、蓮念寺南側、諏訪台中第二校庭北側を通ってある程度日暮里駅近くまで進める。

⑤もC路とほぼ水平であり、東日暮里1丁目の東日暮里ふれあい館あたりを通る点では④と同じであるが、朝鮮第一初中級学校キャンパスにぶつからずその南にある猿田彦神社や公園の前をとおり、細いながらも諏訪台中第二校庭南側を通って目黒駅前、線路の反対側にある天王寺に対する地点に出ることができる。

⑦は、ちょっと立派すぎることと大きく湾曲していることから特に根拠なく敬遠することにして、⑤のルート(かんかん通り)を歩くことにした。

 

では、かんかん通りのいわれとなっている猿田彦神社あたりから。

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思ったより小さい。

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劣化していて読みづらい。江戸期創建。さほど古くはない。

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西へ 第3日暮里小北側

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尾竹橋通りにぶつかる。行き止まりに見えるが少し北にづれるところに道が見えるので行って見よう。

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四つ木の西光寺前の道程度ではある。なんとかなりそう。

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持ちこたえる。

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駅付近の町並みが見え始めている。オアシスを目にする感覚だ。

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諏訪台中

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58号尾久橋通りが見える。

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この地図は市販のそれより、グーグルより有用だ。

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平屋だと水没する。東京低地の終わりも近い。

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あの階段を登れば上野、谷中の台地に行ける。

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見えてきた。

下総の台地(市川市国府台)の駅家から約15キロ

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寄り道して樋口一葉記念館と旧居へ

 大関横丁交差点でどうしたものかと途惑い、とりあえず交差点角にあったMACに入り、一人作戦会議。

地図を見ると一葉記念館が近いではないか。

交差点角は三ノ輪1丁目。その南は竜泉3丁目。

さらいえばその東南に位置するのが千束4丁目、旧吉原だ。

せっかくだ、寄り道しよう。

東泉小の西側脇を南下すればよい。駅から10分ほど。

 竜泉3丁目はちょうど盛り場から離れた地域にあり、ビルが増えているとはいえまだ低く昭和の雰囲気が残っている。この雰囲気だけでも歩く価値はある。

 

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短く車両禁止のところがあり、そこに記念館があった。思ったより大きい。

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築40年して建て替え、3年になる。

いいデザインだ。中も斬新。

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広さ、収容物の多寡より展示の仕方、展示物の説明文で館のレベルがわかる。

おざなりの説明文ではなかった。

永青文庫より高評価をつけたい。

職員の展示する中身充実への意欲も伝わってくる。

展示物の撮影もなるべく可とし、不可は少なく個別的にしようとするなど区立の館にしては珍しい。

大人300円、小中高性100円は高くない内容だ。

行ってよかった。

 

出てそばの旧居跡にも立ち寄った。

本郷4丁目菊坂の旧居跡には行っているのでその次の旧居先を見れてよかった。

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記念館で見たこのあたりの古い地図はこう

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一葉宅と当時の高家、川路邸や戸田邸との広さの格差には驚く。いまはここまで酷くはない。

もっとも、ゴーンやソニー社長の年間報酬10億円はそれに近いが。

記念館で思ったのは妹くにさんの卓越さだ。

姉が結核にかかったのに狭い部屋でうつらず、のちに11人の子を産んだ強靭さ。

かなりの美人

姉の本の出版、演劇その他にプロデューサーとしてなした力量

バッハを発掘したメンデルスゾーンのようだ。妹がいなかったら作品は残らなかった。

 

こちらは前に行った本郷菊坂の旧居付近。

 

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古代東海道 武蔵国④ 歴史的農業環境閲覧システムと荒川区南千住から台東区三ノ輪駅近辺へ

前回、明治13年~19年の迅速測図原図に隅田川貨物駅の広大な線路が見えているのは早すぎないかと疑問を述べたが、歴史的農業環境閲覧システムの解説をよく読むと「現在の道路(赤線)、河川(水色線)、鉄道(灰色)と書いてある。

黒っぽく見えた鉄道の軌跡は灰色の現在の姿ということのようだ。線路に直交する道 ― これは黒色とみるべきことになる ― をおかしいと思っていた謎が解けた。

 

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 歴史的農業環境閲覧システムとは?

独立行政法人農業環境技術研究所による公開発表がされている。

  独立行政法人農業環境技術研究所 農業と環境 No.97 (2008年 5月1日)

農業環境技術研究所は、明治時代初期に作成された地図 (迅速測図) をインターネットで閲覧、利用できる 「歴史的農業環境閲覧システム」 を構築し、4月18日と19日に行われた農林研究団地の一般公開で来場者に利用していただきました。4月21日からはインターネットで公開しています。」

 ドラッグして左に移動したのが次の地図。江戸時代後期には、現464号(旧日光街道)がかなりの幅広の道として使われていたことがわかる。

明治通の前身は貫通していないようだ。当方が推定したその上の矢印と赤丸をつけた道の方が全体として筋が良いようだ。これで考えたい。

 

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下の現代の地図で見ると

☆は南千住3丁目交番前の交差点

E は明治通

通る道はCかDでこのうちCを選択する。

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464号線を渡る。南千住2丁目だ。

はるか遠くまでまっすぐ。江戸時代からその様子。

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先に建物が見えていて行き止まり?

ではなく、左にカーブするところ。どこかと同じ。

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直線部が終わる少し前で荒川区から台東区に変わる。三ノ輪2丁目。

区境台東区側に「改栄湯」という銭湯があり、注目を集めている。経営者の意気込

はネットでも伝わる。

各種地図にもこの銭湯名が記載される。

 

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ここで少し左に曲がる。

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小さな児童公園。先に見える大通りが泣く子も黙る明治通り

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明治通りに出て右100mがあの大関横丁

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交通形態の超密集箇所だ。

鉄道はJR常磐線つくばエクスプレス、地下鉄日比谷線、都営荒川線(路面電車)。

道路はといえば、金杉通、昭和通(日光街道)、国際通、明治通(土手通)。

どういう地形になっているのか、どこをどう行くべきか見当がつかない。

ブラタモリならこの道〇十年の地元教育委員会学芸員や大学の先生が登場して説明をはじめるのだけど。

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事前に調べておかないと。

現場で面した説明がこれ。「奥東京湾に突き出た台地の先端部」という言葉がヒントになりそうだ。

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実踏に出た当日はどうしようもなく、帰ってから地図をじっくり検討しはじめ、しばらくしてようやく一つの推論が出てきた。

楽家は指揮者も楽器奏者も楽譜を読み込むのが勉強というが道路を考える場合も地図を読みこむことは不可欠に思う。


(以下骨子)

明治通りは三ノ輪2丁目交差点で右に急カーブしているが不自然ではないか。明治通りになる前の古い道で上記交差点をそのまままっすぐ進む道がある。

右側に梅林寺(東泉小の反対側)、左側に東泉小、東盛公園、寿永時が並ぶ。

そしてこれまで述べてきたC路,D路は左に緩やかなカーブを描きながらこの道につながっている。

この考えを地図に落とすと次のようになる。

 

 

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以下、梅林寺と東泉小

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古代東海道 武蔵国③ 荒川区南千住/汐入(その1)

隅田川には渡しが20前後あったという。

下総から続く古代道との接続を考えると渡った箇所は隅田(住田)の渡しであろう。

では隅田の渡しはどこか。

現在の水神大橋と白髭橋の間、隅田川神社の対岸当たりではと推定されている。

そう考えて対岸の地に行って見ることにした。

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白髭橋を渡って右側だ。

渡ったところ(白髭橋西詰)から早速歴史の息吹を感じる。

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天皇行幸記念

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対岸墨田区から見た入り江のよう地形になっている瑞光橋や汐入公園に惹かれ、またヒントを与えてくれる標示があるかもしれないと右折して川沿いに瑞光橋を目指す。

 

歩いてすぐ堤防左下に神社の姿が目に入った。

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ある程度のアウラを感じるもその時はその神社がどんないわれを持つか全く知らずにパッシング。

対象が物理的に見えていてもその意味を理解するものがこちらに準備できていないと見えているのに見えていないことになってしまう。

裕福なファミリーが幼児を連れてフランスに行ってルーブル美術館を見せても1歳、2歳では記憶に残らず無駄だろうに。それと似ている。

 

瑞光橋、瑞光橋公園に行っても取り立てて得るものはなかった。

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都立高専の塀に沿って西進。

 

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現在、産業技術高専となっているが前は航空高専だったはず。都立高専は改編がなされ、また分校的施設が多く体系がわかりにくい。

都立大も石原知事の時?に首都大学何とかに改名され、現小池知事の時にまた前に戻った。

たかが校名というが都立高校であってもその名称変更は条例改正を伴う議会案件で楽ではないのだけど。

 

ここら辺よりさらに北、汐入地区(南千住8丁目)は近代的で広い空間を確保しながらの整然とした高層・中層マンション街に変身している。

いまや荒川区の新しい顔だ。

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分譲価格はお高いのであろう道歩くファミリーからもその雰囲気が伝わる。

しかしぬくもりを感じられずスウェーデン郊外の住宅街みたい。近代的だけど寂しそう。

歩くのは南側。くすのき通り。

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JR隅田川駅にぶつかり、フェンス越しに社会見学となった。左折。

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スーツ旅行さんが京都まで自転車で行って,帰りに自転車を1両貸し切りにしたコンテナに載せて運んでもらったというユーチューブがあり、どこかわからないけど貨物駅の様子が映っていたので印象深い。

 

橋場橋通り入り口交差点で右折し、三ノ輪方面へ西進。

あたりは物流倉庫街になりうら寂しい。

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海抜ではなく地上高の予想水位。5mだと平屋の屋根では水没してしまう。

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464号の大通りにぶつかる。

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向側2本の道とも大関横丁(三ノ輪駅)へつながる。手前自転車の右側は交番。反対から見るとこう。

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 ここまでの道は下の地図で赤丸、B路。

が、果たしてふさわしいのか確信は持てない。

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驚くほどの直進性は保たれこの点は古代官道の要件を満たすが先のC路と直線で結ばれていない。

 この点ではむしろBより1段下のC右路の方がはるかにふさわしい。しかしC右路は右端が東京ガスの敷地にぶつかり遮断されている。この点をどう見るか。

 

考えたのが

東京ガスが工場を作る前に道があったのではないか

②そしてその道は石浜神社につながっていたのではないか、という推論だ。

石浜神社の沿革が気になる。

石濱神社(石浜神社) | 神社と御朱印 (tokyolovers.jp)

石浜神社 - Wikipedia

(引用)

724年神亀元年)に創建され,奥州征討の折、源頼朝が戦勝を祈願し、また元寇の際に、朝廷鎌倉幕府7代将軍惟康親王勅使として戦勝を祈願させた。いずれの戦役にも勝利したことから、中世以降関東武士を始め、多くの人々の崇敬を集めることになった[2]

とある。

荒川区最古の神社らしい。当然奈良時代から周囲には一定の道路があったことになる。また、その歴史性故過去から現在に至るまで容易にはお取りつぶしができなかったということが言えよう。

現在の光景はガスタンクの隣に立ちあまりにミスマッチ。立ち退きを迫るも断られた、あるいは言い出せなかったということがあるのではなかろうか。

その辺は社史に載っているかも

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C右路右端の行き止まり地点と石浜神社の位置を航空写真で見て見よう。

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東西に道があったとしても不思議ではない。

ここらへん、迅速測図原図でヒントは得られないか?

迅速測図原図を置いてある図書館は少ないし、あってもその図書館近辺の少数というのが多い。お高いからかな。

と、思っていたら農林省の外郭機構が関東についてネット公開していた。

これは助かるし、うれしい。国民の財産を真の国民財産たらしめるにこれに勝る方策はないと考える。

京大学長から国会図書館長になった某氏の考えがだんだん浸透してきている感じがする。

そこで、検索してみたのがこれ。

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☆1は瑞光橋付近だろう。

☆2は右から「橋場渡」と読める。ここから☆5に至る赤い線は現明治道路。

 明治道路に一部ぶつかる位置に今や移転している「総泉寺」が見えている。

しかるに石浜神社が見えていない。変だ。☆3かな?

そもそもこの写真、2枚の原図を張り合わせたもののようだが私が?マークを付したところでずれが生じているように見える。

もしかするとこのあたりに削られている部分があり、そこに石浜神社があるのかも。

古い道はa, b c に見えている。

 

 逆に地図に記載があってわからないのが現隅田川駅の引き込み線が描かれている点だ。この貨物駅できたのは明治30年と聞くが原図が作成された明治13年ころ。おかしくないか。鉄道に詳しい方のアドバイスが欲しい。

  (続く)

 

付記:地元の方の地元愛に基づく記事はとても参考になる。図書館の地域・行政資料コーナーに負けていない。汐入地区は関東大震災や空襲の被害はほとんどなかったとのこと。水害は多かったようであるが。

ドライブ・マイ・カーに関する感想その2

西島秀俊主演、濱口竜介監督村上春樹の短編を映画化した『ドライブ・マイ・カー』が、全米批評家協会賞にて作品賞、主演男優賞など4部門を受賞。

というニュース。

前に感想を述べた後、原作を読んでいるのでそのあたりの感想を。

 

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原作と脚本でどの程度の乖離があるのか。もしかして原型をとどめないレベル?

興味があったが、かなり原作の香りが漂っている。

ざっと読む限りこの短編集のうちの2編をミックスして1作品にした感じを受けた。

 

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ならば、春樹をもう少し評価してあげてもいいのでは?

村上を腐すのがトレンドになっているみたいなのはいかがなものか。

 

そのうえで短編集の感想を。

本のタイトルになっているようにテーマは、突然女に去られた喪失感!

ここがワンパターンといわれるゆえんか。

 

それともう一つ気になる点が

なんで性描写をいつもああも加えるのだろうか

駅売りスポーツ新聞でなく,週刊実話でなく、朝日芸能でなく読者サービスなど不要に

思うが。

いや、心底村上氏が好きなのかも。

表現における性依存症じゃないの?

ノルウェー何とかも1q84もそうだった。

 

 

東京芸大の学長さん、濱口竜介監督との会談は大学としての栄誉感を満喫してとても嬉しそうだった。

芸大にとって大学院制度の変革は成功だったと思う。

音楽演奏家では先日のショパンコンクール入賞者が二人とも桐朋女子高出身だったように国立大は早期教育に結び付けている私大にかなわないと思う。

大学院は違う。他大学学部卒で生きのいい将来性ある青年を引っ張ればよい。

映画監督と写真家でうまくいっている。東大卒の濱口氏、写真家では早大卒の石川氏。

此れからのゲーダイは大学院で音楽以外の分野でトップを目指すのが効率的だ!

考えてみれば欧米風だ。

 

古代東海道 武蔵国② 隅田川のほとりで考える最近のこと

 

 市原市界隈から始めてここ隅田川ほとりについての考えをアップするまでの短い期間であるが、結構考えさせてくれる事柄が生じている。—決して芳しくないものではなく、むしろ逆であるが—。

1はNHK大河ドラマで今日2022年1月9日から始まる「鎌倉殿何とか」関連だ。

 頼朝が敗軍の将となって少数の侍とともに船で静岡から房州安房国に逃亡してそこから再起し、上総、下総と軍を進める行程って武蔵の国が東海道ではなく山あい国域であった東山道に属していた時代(771年宝亀2年の前)の東海道と近い。

 ま、東海道で海を渡る起点は三浦半島だったけど。

 いざとなった時の基本志向はヤマトタケル伝承時代と変わらないようだ。

 

神奈川県の土木技術者が論文で書いているように何百年か前になるが古墳時代の遺跡は少なくも平安前期の交通事情を考える際に参考となることは十分な合理性があると思う。

頼朝らの行程はのちの時代ということで時間的には逆になるが孝標一行の上洛時期からわずか百数十年後。百数十年前の交通事情を推し量るのに有効な材料とならないわけがなかろう。

 

更級日記のような夢見る文学少女の日記と異なり、国の最高権力者となったものについての論考は極めて多い。

ネットでも要領よくまとめて記事にしてくれている記事が多い。その一つを称賛しつつ紹介させていただこう。

DownToTokyoのブログ

https://ameblo.jp/masaoshibata/entry-12387833641.html

以下引用

頼朝の挙兵

伊豆に流刑になっていた源頼朝は、皇位継承問題で危機に立っていた後白河天皇の第3皇子以仁王(のちに皇籍剥奪され源以光)の出した平氏追討の令旨に呼応して挙兵。

しかし、石橋山の戦いで破れ、静岡県真鶴から千葉県の安房まで海を超えて落ちのび、房総半島の武士の助力を得ながら下総国まで進軍してくる。

しかし、その進軍を隅田川に阻まれ、武蔵国に入る前に足止めされてしまう。

この時、武蔵国を地盤とする平氏の子孫 江戸重長に、頼朝は平氏方を離れ自軍へ参加することを要請。

江戸氏と共に、同族の千葉氏・葛西氏が共に船を集めて、浮き橋を掛け隅田川を渡るというエビソードがある。

この橋を掛けた場所が浅草の北方、現在の台東区橋場(旧名石浜)だというのだ。

 

文中には当ブログで述べてきた、下総国府、四つ木の葛西清重などの名称が出てくる。

 

2は現代の交通に関することであるが前日の新聞。

                      

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当ブログでは下総国(江戸川から隅田川)③でその踏切付近について写真を載せているが、その路線についてのものだった。LRT(次世代型路面電車)の検討など、まさに現代交通政策のお話だ。

 

読売新聞 2022/01/08 電子版一部引用

 東京都葛飾区は、区内を南北に走るJR貨物線の旅客路線化事業に着手する。近隣には映画「男はつらいよ」の舞台となった柴又帝釈天もあり、観光振興や街づくりの起爆剤とする構想だ。区は2030年頃に一部区間の開業を目指しており、高齢者や障害者が利用しやすい低床の「LRT(次世代型路面電車)」型車両の採用も検討する。

 

 葛飾区の青木克徳区長は「排ガス削減など『脱炭素化』の潮流の中で公共交通機関の重要性は高まっている。早期開業を実現したい」と語った。区は近く、JR東日本国土交通省、都などと検討会を発足させて調整を本格化させる。JR東も「区の検討に協力していきたい」としている。

 

 旅客化の対象は、JR総武線新小岩駅付近と常磐線金町駅を通る単線の「新金(しんきん)貨物線」(約7キロ)。東京と千葉をつなぐ輸送網として大正期に整備されたが、貨物輸送の多様化に伴って運行本数は減っている。

 

2000年前も1000年前も、そして今日も森じゃなかった「道は生きている」。

迅速測図と活用v2 / 古代東海道 下総国㉟

迅速測図(圖) 

1⃣比較的新しく歴史・地理について書かれたものを拝読すると参考文献として迅速測図を挙げる人が多い。

研究者はむろん、郷土史家、はたまた町内会のレポートまで。

 例 市川市国分町自治会には中国分史書編集委員会なるものまであって格調高い発表をされているがそこで添付。内容も自治体の市誌や学芸員と変わらないレベルに感じる。

 (参考) 引用されている迅速地図では国府台に軍隊が進出する前の土地の様子や江戸川右岸江戸川区の様子もうかがえ、興味深い。やはり現里見公園対岸には都心に向かう道筋が見えている。

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☆Aは真光院か Bは渡河推定箇所 Cは北:里見公園・総寧寺、東:国府台病院への分岐点

屈曲点Dは左:和洋女子大入り口、右:国府台スポーツセンター入り口(国衙推定地)

矢印1は総寧寺参道であるが古代時の渡河点に向かう道という考えはどうか

矢印2は現県道松戸線、矢印3は弘法寺への道、

 

2⃣ 広義では歴史・地理になるのだろうけど、植生、生態学分野でも活用されている。

 市川市史 自然編に次のような記述があり、至極納得する。

 「過去の植生は地下に遺された植物遺体に基づいて推測されるが、明治時代になると地形図が登場する。最も古いものは1880年(明治13年)に作成された迅速測図である」とし江戸時代後期から続く植生の概況とみている。

(第2章市域の自然の姿とその変遷 第2節低地に水田が広がっていた時代 (1)土地利用図を用いて地域の変遷をたどる。p43)

迅速地図がなかったら江戸時代後期の植生は地面を掘って植物遺体を調査するしかなかったわけで、文字や図面に遺しておくことがどれほど価値を有することか門外漢でも理解できるところだ。

同書は「市の木」黒松についても迅速図原図を重要な説明資料に用いている(第4章第2説 P188)。

3⃣では迅速測図って何?であるが

ここで話題とする地図の正式名は第一軍管地方二万分一迅速測図

概要は(ウイキペディア)          

*復刻版を発行している地図センターは、明治13年から明治19年にかけて作られた「第一軍管地方二万分一迅速測図原図」は陸軍参謀本部によって実施されたわが国初の広域測量の成果。等高線等による地形表現のほか、水彩絵の具により市街地の状況や田畑を巧みに彩色してあり、見た目も美しくわが国近代地図作成史上最高の傑作といってもよいと激賞する。

しかし、地図作成を含む軍制全般がフランス方式からドイツ方式に移行されたため原図もドイツ方式の一色刷り用に書き直されて刊行されたため、原図は日の目をみることなく倉庫で長い眠りについていたとのこと。

迅速図の例

下は更級日記中の「くろとの浜」あたりではないかとされる黒砂村落部

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なお、地図名は千葉県下総国千葉郡黒砂村落となっている。古代の国名の前に明治期の県名が来るとは興味深い。

東京湾ではなく品川湾と記載。確かに江戸時代に東京湾はありえない。

木の種類も記載されているが,木偏に右側の上が八,下が口という文字が散見される。辞書にはショウと読み、松の別体とあるが松の文字も使っており意味不明。

測手 陸軍砲兵少尉 小野田健二郎とある。

 

迅速測図自体の歴史を考えると伊能忠敬の地図以上に興味深い。明治政府は倒幕したのに旧幕府の技術官僚的幕臣の力に頼ったわけだし。

 

古代東海道 武蔵国① 入国した隅田川先の古代道比定・推定は困難

 白髭橋(隅田川)を渡れば武蔵の国

下総の国江戸川から隅田川までは前記のとおりここが古代道だろうと推定される道があるが、隅田川の渡し場(☆A)から豊嶋駅家(☆D)に至る道についてはハッキリ比定する方はいないようだ。

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「地図で見る東日本の古代」も東武鐘ヶ淵駅とJR日暮里駅付近を点線で結んで推定・想定路としているだけ。

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*これは明治42年の陸軍迅速測図をベースにしている。明治42年というとかなりの産業が隆盛となっており,地図でも鐘ヶ淵駅そばに鐘ヶ淵紡績、川の反対側右岸には東京紡績の工場そして広大な貨物停車場が見えている。

 

学者・研究者はそうするしかないのかもしれないが、「円仁の足跡を訪ねて」的に実際に体を使って進もうとするときは、どれかに決めないと進めず困る。

 

なんでこの場所は困難なのだろうか。

国府跡より国分寺跡は残りやすい。お寺より道はもっと残りやすいはずなのに。

 

思うに

・川の流れが大変に変化しやすい場所でそれに伴って道路付も変化しやすい

・明治以降、遺跡の保護思想が薄弱のときに大規模な工事が行われている。

 紡績工場やガスタンク

 国鉄の大規模施設

関東大震災、洪水、戦争時の空襲など重大な被害を受けることが多く、そのたびに道路の改編も含んだ大規模な再開発が行われた

などが原因ではなかろうか。

最近の地図ではこうなっている。

 

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 右岸紡績工場付近は巨大排水ポンプ場や都立産業技術高専に変わっているが、JRの貨物駅、東京ガスは健在だ。

 橋場町2丁目にあった大寺総泉寺は迅速図には寺マークが認められるが関東大震災で罹災して今や白髭橋近辺には存しない(板橋区に移転)。

同寺の歴史は豊かで梅若伝承にかかわり、千葉氏、佐竹氏の名前も出てくるので無視することはできないだろう。
これらのことを踏まえながら次回以降なんとか一本の通る道を仮定していきたい。

古代東海道 下総国Ⅱ(江戸川から隅田川) ⑧ 荒川から隅田川へ再度の実地踏査

前回の荒川から隅田川にわたる実地踏査はどうも消化不良だった。

荒川ふちのほがらか保育園付近から東武鐘ヶ淵駅への道を歩いていない。

同駅踏切から墨堤通にわたる過程も説明不足。自分の備忘録としても。

墨堤通西側の堤通2丁目は木母寺、隅田神社と歴史の濃い場所であるのに歩いていない

のはまずい。

と自己判定は不合格。なので途中から再実施することにした。

 東武鐘ヶ淵駅を下りて荒川まで往復では安直。昔、荒川はなかったのであり葛飾区四つ木付近から対岸の八尋、墨田の全景を見渡しながら歩いたほうがいいに決まっている。

 そこで京成八広駅から始めた。

駅で路線図を見て京成路線は古代道路に沿っていると気づく。

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駅を降りて川はすぐ。堤防に上がるが、東京低地を感じざるを得ない海抜高さだ。

 

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四つ木橋、新四つ木橋が重なって見える。

しかし川原は健全な生活に有効だ。スポーツ、散策と。

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それだけではない。

一か所かなりの部分を放置保存してあった。生態系保全目的だろう。

この箇所は孝標一行が武蔵国低湿地を渡るときの情景裏付けとしても参考になろう。市原市村田川付近に例を見る必要もなくなる。

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江戸川の時と同じようにほぼ想定とおりにほがらか保育園を見つけた。

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その個所に階段があり、堤防を下りるところで目にしたのが

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水難に関してか、古代道を偲んでかわからない。

 

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踏切が見えてきた。

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手前ではなく渡った先

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いい掲示があった。葛飾区とは異なるタイプだ。

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付帯の地図

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下の地図は上が南。赤丸の北にもう一本道があり、途中で消えているが、もしかすると、隅田小学校建設で削平された古代道路かもしれない。

そこらへんは明治13年の陸軍迅速地図で確認するしかないが、踏切先道路との直線性を考えると赤丸道路でいいのかも。

 

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交番は古代道を守っているかのよう。

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成林庵。

珍しいが尼寺とのこと。非公開。

修学院離宮(京都)に行ったとき広大な敷地に垣根で隣接する小さなお寺があり、気になったがそちらも非公開の尼寺だった。

気が付かなかったが紅葉がきれいだった。写真に日付を入れておくのは資料目的なら不可避に思う。

 

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途中道が狭くなると思っていたところは単に曲がっているだけだった。1回の密度の低い踏査だと下手をすると誤解を固定するだけになる。

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此方の祠、入れず。マンション内の私有地となっている模様。

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さて、今回は前回と異なり墨堤通りのところで左折して信号を渡って巨大防災
団地内に入った。

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水神保育園付近。なぜか保育園と縁がある。鐘ヶ淵からの道路延長先になる。

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団地1階は通り抜けができ,公園に連なる。

江戸時代の歴史が濃い。

木母寺,隅田神社はかっての位置より100m南に移設されているのでここら辺が渡河場所と考えてよいだろう。

高速道路と堤防に囲まれているようで気の毒。

 

木母寺

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隅田川神社

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堤防に上がり、高速道路の橋脚の脇を歩く。石の羅列はデザインか寝泊り阻止目的かわからない。

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白髭橋が近づく。

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心底美しい橋だと思う。

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