古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道・武蔵国⑭ 東日暮里から桜田門2⃣ 森鴎外住居跡→薮下通り→千駄木ふれあいの杜と太田道灌末裔

昔はなかった不忍通りを越えて団子坂下に入る。

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実際は写真より急

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横から撮ると傾斜がわかる。舗装がない時代、雨の時は大変だっただろう。

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団子坂上に到着して振り返った。距離は短い。

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右折すると(写真では左)公的施設がある。

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反対側を見ると変わった建物が。

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森鴎外記念館だ。

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文人たちのサロンであったとか。

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敷地320坪、建物101坪であった。当時としても極めて広い。

鴎外は生前から文学者として認められ、世俗的地位も高く、国際恋愛もし、立派なお屋敷も建て、と、はたから見ると恵まれた人生。能力があるのだからねたんでもしようがないけど。

 

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薮下通りに面するこちらが当時の玄関入り口だったようだ。

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薮下通り側から東京湾の海が見えたというのだから信じられない。

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とにかく高台で、薮下通りは車も通らずとても雰囲気が良いところ。

一目で好きになる町並みだ。

 

 

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隣は最近建った低層高級マンション?。お高いのでしょうね。

下の不忍通り付近でもバブル当時坪1500万したというから。

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薮下通りは本郷台の中腹を南下する道。初めて知ったいい道だ。下の赤丸のように進む。左側に公立学校が二校並ぶ。

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かなりの崖、高低差。

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歩いていく。おしゃれな関西高級住宅地っぽいところ。

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と、突然進行右側奥に緑のゾーンが見え、なぜか気になったので入ってみることにした。

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千駄木ふれあいの杜」という。説明文に驚いた。

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太田道灌の子孫とあるではないか。

え?道灌は殺され、息子も殺されたと記憶する。お家断絶ではなかったのか。その子孫が平成28年に寄付とはどういうこと?

自然,植生の変移より人的継承が気になってしまう。

 

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入り口右階段がある。

鴎外宅あたりは薮下通りピークでそこからこちらに下がってきて、その分本郷台地の崖が目立ってくるということか。

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後でここを地図で見ようと思ったが市販の7000分の1の地図でもなかなか出てこない。広尾や南麻布と同じように都心の中でも相当な動機付けがないと行かないところだ。地下鉄が通る前は特にそうだっただろう。

道路際の地図が役に立つ。

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太田道灌末裔 太田摂津の守のこと

 実地踏査に行った後、千駄木ふれあいの杜掲示板にあった太田道灌子孫のことが気になって仕方がない。

 そんな折、すでに紹介済の「谷根千 地図で時間旅行」にかなり詳細の記事があった。地元の人にとって長く家も残っていた太田家は大きな存在であったらしく、森さんも調べたのであろう。大助かりだ。以下一部紹介引用する。地図を前にしての説明である(26頁)。

甲府宰相 ー将軍家綱の弟綱重のこと― の上に太田摂津の名が見える。太田道灌の子孫で徳川家康は江戸入府の際、先住者と和解のため、その姫をめとった。お勝の方18歳(家康60歳)。世継には恵まれなかったが水戸徳川家の祖となる頼房の養い親となり、春日局と組んで秀忠夫妻の可愛がる忠長でなく家光を世継ぎに擁すなど、政治的な実力もあった。家光はそれを恩に着ていた。

 そのころからある太田家の屋敷であるが、明治に入るとこのあたり、鴎外や漱石らが暮らす文化人の住宅街となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

古代東海道 武蔵国⓭ 実踏:東日暮里から桜田門① 善性寺→芋坂→天王寺→三崎坂→団子坂下

 この日(2022.2.23)、地下鉄日比谷線三ノ輪駅を降り(荒川区東日暮里1丁目・台東区根岸5丁目)、皇居桜田門まで通しで歩いた。

 大げさであるが私の人生でこれほど新鮮で有意義な1日はなかった。大学が三つ(日本医大、東京大、明治大)、全生庵など有名なお寺がいくつか、遺跡が二つ(天王寺貝塚弥生土器発見地)、文学者旧居などが三つ(森鴎外夏目漱石幸田露伴)、まったく知らなかった太田道灌子孫ゆかりの緑地(千駄木ふれあいの森)などツアーで行くおざなりヨーロッパ旅行よりよっぽど深く有価値。

 流行の街歩き、健康維持散歩、地方学生さんの東京見物にどうでしょうか。この間、交通費0,入館料0(途中の過程を大切にするため入館せず)。

 

大関横丁から現暗渠になっている音無川を進んだ。

都立竹台高校前交差点で尾久橋通り(58号)に入る。

少し進んで斜め前方細めの道に入る。

 

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と、すぐに右側に善性寺の築地塀

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隼人稲荷は同じ敷地内の右端にある。中の祠はなぜか鉄格子で保護されていた。(写真は撮らなかった)

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こちらが左隣にある善性寺山門

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思ったより小ぶり

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さて谷中への登りは漱石,子規への敬意表出というより先で通る団子坂への流れから芋坂を選択した。

 

団子屋の右わきを入る。

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立派な王子街道、芋坂の案内石柱

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ガードの下をくぐる。

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いました。ご存じ鉄道マニア。マイクを装着している人が多い。時代だ。

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途中格子間から線路対岸の墓地を撮る。

キリスト教墓地が外れのがけ下にあり、そこの法面が貝塚発見地とのことであるがどこが入り口かわからないのでとりあえず。

 

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参考に渡った先の児童公園脇の行き止まりの道に行って見た。

線路が通る前はここから団子屋の前まで道が通っていたと思うので。

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登った先で二股に分かれるが、キリスト教墓地に行くためあえて左折

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これがそうか。洗礼名と十字架が刻んである。

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線路に沿って南に歩くともう一つの架橋にぶつかる。

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戻って天王寺に向かう。

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この少し先までのルート

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安立院(あんりゅういん)の脇を通る。

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かって安立院は天王寺の内部組織であったことがわかる配置

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天王寺の伝統的な門前に出た。日暮里駅から歩いてくるとこちらは見えず、車が入る左側の門がすべてと誤解してしまう。そう書く人が少なくない。

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もう一度確認。こっちの地図がベター。

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千年前はお墓はなく三崎坂まで直線で行けたと思うが、お墓だらけの今はそうはいかないので墓地内メイン道路を行く。

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すぐに焼失した五重塔跡前に出る。

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参考までに五重塔を書き、樋口一葉の理解者であった幸田露伴旧居跡を(左下のお墓前)。

毎日お墓を目にするのは気が晴れないのでは?

住んでいた期間は長くない。晩年、没するまで住んでいたのは市川市菅野。

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大きな交差点らしきところがあり初めてだとわかりにくいかも

 

こう来て

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こうなる。この部分の地図は次に

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以下実写で

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三崎坂上。ここら辺は両側に寺院がたくさん。

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その中でも有名なのが全生庵だ。

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三崎坂(さんさきざか)はかなりの傾斜。昔はもっときつかったはず。

底部(根津谷)に近くなり、変わったデザインの谷中小学校に接する。

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朝日湯

普通の公衆浴場に行ったことは何十年もないので記念撮影。4人家族が行ったらかなりの出費になる。

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底部はかって露出していた藍染川でびわ橋が架かっていたことになる。右折(写真中央)すると「よみせ通り」で、先で有名な谷中銀座入り口にぶつかる。

左折すればこれまた有名なへび道だ。

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直進してすぐに不忍通りとなる。

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向こう側に地下鉄千駄木駅入り口と団子坂の入り口が見えている。

なんで三崎坂(下り坂)+団子坂(上り坂)のルートにしたかというとこの上野台地と本郷台地を結ぶラインは500年以上の歴史があるらしいので。

決して文学作品に多く出てくるからというわけではない。

次回は団子坂登りと森鴎外旧居跡から。

古代東海道 武蔵国⑫ 上野台と本郷台

 

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 天王寺あたりに登ったとして京へ向かうには左折南下せざるを得ない。

 どのルートで?

既に足を踏み入れている足元の上野台尾根道をそのまま南下するのが素直な解釈にも思える。遺跡も多いし。

<上野台の古墳群>

  上野の台地に遺された唯一の墳丘として、摺鉢山古墳があり、前方後円墳と考えられている。このほか付近に、東京文化会館敷地内には桜雲台古墳、国立博物館内には表慶館古墳、旧都立美術館南正面に蛇塚古墳があったという。

古墳群のほかに縄文時代貝塚や遺跡もあり、JR西日暮里西側沿いに北から南へ道灌山遺跡、延命院貝塚、領玄寺貝塚天王寺貝塚、新坂貝塚、と続いている。

 上野台地には、博物館・文化財研究所、美術館、東京芸大、動物園など公的施設がたくさんあり、そのうち一か所は私の異動履歴の一つであって愛着もあるので上野台地尾根道南下ルートをたどりたいところだ。

 

しかし不忍池あたりで低地になる。そこは入り江だったのであり、どこかで対岸本郷台地に渡らなければならなくなる。

どこで?

 

下は切り絵ではなく全図というのだろうか大きな1枚ものの一部。壁に掲げるデザイン感覚でずいぶん昔に購入し、飽きて、しまっていたのを思い出して取り出した。

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加賀と水戸殿が現東大キャンパス。その上に黄色く「本コウ」と本郷通りが書かれている。不忍池に注ぐ谷田川と天王寺下を流れる音無川(石神井川下流)が見える。

 

天王寺あたりからそのまま進んで本郷台に移ってから南下するということも考えられよう。

本郷台地にも富士神社古墳、動坂遺跡、向ヶ岡弥生町貝塚、東大構内遺跡、湯島切通貝塚と遺跡が目白押しだし。最近では工学部武田先端知(たけだせんたんち)ビル新築に伴う発掘調査で弥生時代から古墳時代前期の墓の一種である方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が2基検出されている(2001年)。

 

しかし上野台地と本郷台地の間は谷間の低地。かなりの湿地帯だったようで簡単ではない。

それは古い話ではなく前述「ベスト谷根千」に古老に聞いた話が載っている。

不忍通りっていうのは、昔は千駄木の底なし田んぼと言われたぐらい,ずぶずぶ深くてね。そこに道を引くときは本郷区じゅうのゴミを持ってきて埋めてたという」

「この辺、昔は海の入り江でしょう。千代田線の地下鉄工事のとき、ヨシやアシの炭化したのが出てきたからね」

明治でこうなら、古代ではどうであったか。

 

 こう思う。

1 不忍池南の主要遺跡としてお茶の水遺跡、明治大西側遺跡、そして旧本丸西貝塚があるがこれとほぼ直線でつながるのが本郷台地コースだ。

2 どこかで河川・湿地を渡る場合、川幅は下流より上流のほうが狭いのが一般。

ならば不忍池南より少しでも上流で渡る方が合理的ではないか。

3 子供は長靴で水たまりの中を歩くのが好きだ。が、長靴をはいていないときは大人と同じく水たまりを避け、ぬかるんでいない箇所をスキップするように進む。

大勢の人が通り、物流道路となっているような官道・街道では恒常的にぬかるみ→水害に遇いにくい安定したところを選ぶであろう。

陣内(じんない)秀信氏(法政大)は江戸期の道路について次のように書いている。

「陸のインフラづくりとして、日本橋を出発点とする五街道をはじめ主要な街道が整備されますが、その道筋は地形をよく考慮したものでした。街道はどれも高台の尾根を通っています。文京区では、本郷台地の背骨を行く中山道が、千代田区では半蔵門から西に向かい新宿区を貫く甲州街道が、港区では南西に向かい渋谷を通りぬける大山街道(現在の青山通り)が、いずれも尾根筋に通されました。」

(東京の歴史4「序章 江戸を受け継ぐ都心の空間」)

 

今から400年前の人の心理はさらにその400年前の人の心理と変わらないと思う。本郷台地に進んでから南下しようかと思う。

古代東海道 武蔵国⑪ 道の探索と参考となる図書

 豊嶋の駅家から皇居までのルートについて試見,私案でもいいので具体的コースを挙げてくれる人がいればいいのだけれど残念ながらほとんど目にできない。

というわけで暗中模索することに。方法としては

 A: 地図上から考える=まさに机上のプラン、b: Aに文献・参考書等他の資料を加えたものから考える C:さらに歩いてみての体感的印象を加えて考えるといろいろありえるが、近いところならCも可能だが、遠くなるほどそうもいかずbがいいところだろう。

 

華の都、江戸、東京のせいか、中世以降、特に江戸時代以降の資料が膨大でかえって見誤るおそれも。

(小岩から立石、四つ木まで古くからの直線道路があるからという理由は結構だが、その道路は現在も拡幅工事が進行中で、さらにかっては必ずしも直線でなかったところが後にそうされたところもある。

 今生きているすべての人が消えた100年後、” 驚くほど道路幅が広く、直線だ。まさに官道の官道たるゆえんだ ”と言われかねず、危惧するところでもある。)

 

さて、膨大な図書から、といってもほんの一部しか目にできていないが、私なりに有用で参考になると思えたのは次のもの。

1 日本の古代遺跡32 東京23区

2 東京の歴史4(千代田・港・新宿・文京区)

  東京の歴史5(中央・台東・墨田・江東区)

3 江戸と東京の坂 

4 ベスト・オブ・谷根千

 

1は昭和62年と少々古いが東京都全般にわたってかなり詳しい網羅的遺跡解説をしている。

上野台地、本郷台地の古墳についてこれを越える一般的解説書を知らない。

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2 各地域についての歴史(旧石器時代から現代まで)のみならず地形、生物、植相、文化まで幅広く解説しているものに○○市(町村)史というものがある。かなりの人材を編集責任者にすえ、採算を度外視して作られる信頼できるものである。最近拝読した松戸市史など内容、文章表現があまりのハイレベルで感動ものだった。

 これを東京23区について求めるとなると色々な意味で問題となろう。

例えば千葉→船橋→市川のように郊外都市では各市中心地間に一定の距離とそれに伴う変化があるのが一般だが東京都心はヨーロッパの街のように中心に核があってそれが放射状に進展変化していくという特徴がある。

 荒川区台東区台東区と文京区、文京区と千代田区など境界付近はごちゃまぜという感じ。分けて考えることにどれほどの意味があろうか。東京都と特別区の特殊な関係性はやむを得ない意味あるものと改めて痛感するところだ。古代にあってはそれがより強かったことになる。

 各区が持つ中央図書館それぞれに行って地域資料を閲覧するとなるとそのわずらわしさに気が重くなってしまう。

と思っていたら吉川弘文館からその悩みを一気に解決してくれるような良書が出ていた。

東京の歴史10巻だ(2018年1刷)。通史編で3巻、23区の地帯編で5巻、多摩と島嶼で2巻となっている。編者がよく、執筆者のレベルも高い。この本の貢献性は高いと思う。その中身については後述したい。

                           

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3 江戸の面影を偲び乍ら歩く東京、という企画は大変多く、書店、図書館にはこの手の本が1m幅は並んでいる。しかし、中身は江戸時代作成の切絵図(区分地図)と現代の地図を比較するというワンパターン。

この中にあって元講談社常務取締役の本書著者は一歩深め、切絵図に点線で幕末以降に作られた道を示している点が秀逸でそこを評価したい。

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4 これは前に紹介した森まゆみさんを含む4人でまとめられたもの(2009年)。

上野公園部分は多くの人が一度は行ったことがあって概況は知られているがよそ者には上野台地の北部や西側地域にはなじみがないか薄くブラックボックスになっている。

 上野台地の東側はあの広範な東京低地になるが台地の西側も狭いながらも一定の幅で似たような低湿地であったこと、したがって上野台地(忍ケ岡、向ヶ岡)と西側に位置する本郷台地間には水田のほか多くの坂道が不可避となっていたことは地元の人や本郷にキャンパスのある東大出身者は肌感覚的に理解できるがそうでない者には学習しないとわからない。

掲載されている明治33年の谷田たんぼの写真は現市原市郊外の湿地そっくりで衝撃的。

不忍通りはまだない。

こういったところは本書4、あるいは2の文京区のところを読んでわかってくる。

 

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古代東海道 武蔵国⑩ 谷中から皇居へのルートを考える

江戸川(市川市国府台)から隅田川へのルートについては書く人が多い。

しかし隅田川を越え、三ノ輪から谷中になると激減(西進)。

谷中から皇居となると江戸時代の資料はありすぎるほどだが古代道となると言及する人はさらに少なくなる。

 

人が既に書いていることについて書く人は多く、人が書いていないことについて書く人は少ないという社会・人文科学的分野に多くみられる傾向だ。

引用で済ませるが人が多く、自分で考える人が少ない証左かな。

 

 学者・研究者がそうせざるを得ないのはわかる。小説じゃないのだから合理的根拠なしに勝手なことを書くわけにいかないだろうし。

じゃ、小説家、勝手な夢想家的立場で思うところを述べればいいのにと思うが、そうする人も少ないようで考えるのも億劫なのだろうか。

 

手持ちの本を見て見よう。

「地図でみる東日本の古代」132頁では明治42年測図上に

A 水神森の墨田川対岸東京紡績工場下から豊嶋駅までは推定・想定路として直線で破線を付し

B 豊嶋駅から宮城まではそれより格下の未詳路として●点線で直線線を付している。

  上野公園、寛永寺不忍池を避けた西寄りのコースで、東京帝大のど真ん中を通る 

 本郷台コースといえるものになっている。

 

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武部「古代の道」はそれより具体的で次のように書いている(79頁)。ー 東進 ー

 JR田町駅付近からほぼ国道1号(桜田通り)の筋で皇居前を通り、名前が変わって本郷通りを北進し、直進路がなくなってもそのまま上野公園の西端を通って行けば谷中霊園に達する。ここが木下による豊嶋駅の比定地である。

 ここまで前の大井駅から13.8キロである。東海道武蔵国の駅はここで終わる。店屋、小高、大井、豊嶋の4駅の駅馬数はすべて標準どおりの10疋である。

 

上野公園の西端とは台地の上か、左端に近い松平伊豆守敷地近辺の清水坂あたりの道か、不忍の池左側の現不忍通なのかわからないが実際の踏破を前提にする以上どれかに決めないと進めない。

検討しないと。

古代東海道 武蔵国⑨ 谷中に上って天王寺へ

 東京低地から上野台地(武蔵野台地東端、山の手台地ともいう。)・谷中霊園付近に上がるとして現在のJR日暮里付近の地形だと三つのルートが考えられる。北から御殿坂、紅葉坂、芋坂。

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 しかし、それらの各地点が多くの人と荷物を伴う集団移動にふさわしい通過ルートとなりえたのか,ほかにあったのか当時の地形が不明なのでわからない。

江戸後期の切り絵図だとこうなっている。御殿坂のほか芋坂が思いのほか使われているようだ。音無川の両側に歩道がうかがえている。芋坂の植木屋は現在の団子屋。

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 台地上のここら辺に豊嶋の駅家があったとするのであれば下総国井上驛や河曲驛付近ではみつかっている「驛」あるいは駅家を感じさせる文字が入った墨書土器が近辺で見つかってもおかしくないと思うがその点はどうなのであろうか。

 

 前後駅家との距離、方角、土木的立地条件からするとふさわしいらしく、多くの研究者が比定箇所としているので拠ることにする。

 

 天王寺はここら辺のシンボル寺院なので押さえておきたい。

なお、天王寺の前身感応寺の開山は1274年。その後日蓮宗日長の入寺、天台宗への強制改宗といったことが生じている。五重塔の放火もあり受けた波風は大きかったようだ。

彰義隊を支援したこともあってずいぶん小さくなっている。

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天王寺五重の塔跡

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途中見た重粒子線治療施設に関すること

下総の国⓴で触れた施設

千葉大キャンパスの少し先、稲毛駅の前あたりでこの前の道を通った。

 

 

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まさか、ここに何度も石原慎太郎氏が治療に来ていたとは。

2年前、氏が87歳のときらしい。

追悼の意味であろうかその時のことについて書かれた手記が文芸春秋社から公開されている。

五木寛之氏同様、頭は明晰、よく記憶し、語彙も豊富だ。

 

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以下一部引用

千葉市の稲毛にある国立の施設に飛んでいった。それは千葉市の一画にある広大な施設で、放射線での治療とそれ以外の施療、採血検査やMRIやエコーに依る検査を行ったり各分野の診断や治療に携わる医師たちの勤める本館と、施設を運営する理事長以下幹部が割拠するヘッドクォーターの建物、そして離れた一画に現代における最先端技術である重粒子線を駆使して癌治療を行う本丸の建物があった。

詳しくはこちらを

https://bunshun.jp/articles/-/51820

 

 2.1逝去の石原氏に追悼文を書いたばかりの「苦役列車」作者西村賢太氏が2.5に54歳の若さで亡くなった。何とも。

 

途中で言及した人または地点と話題 その1 五木寛之

古代の足跡をたどるこのブログも千葉県市原市から東京都台東区まで進んでいるけど、それだけの距離でもたまたま挙げた人や地点が令和の今、世の話題となっていることがある。

 

五木寛之氏 (下総国 市川市の記事で触れている)

 2月3日朝、車の中だったか、NHKラジオを選択したら五木寛之氏が生出演するというので珍しいと思い傾聴することに。

この方、人生訓的な話、著作が多く今回も広義ではそうだったが、中身が世の通(俗)説と異なり、広範な支持を受けそうに思われる。

 主旨は、日本では、いや世界的にも断捨離とか言って捨てることがはやっているが果たして?というもの。

煩悩も物も捨てるってそんなに格好いいものなのか。

平安官制仏教は捨てる仏教といわれるが,氏の解釈では法然らの鎌倉仏教はそうでなく、人を捨てない。

敗戦し朝鮮から極限状態で引き揚げてきたことも影響していると思うが氏にとって生きるためには捨てるどころか拾えるものがないか探す日々だったそうだ。

 

捨てるというのは生産→消費→その後に廃棄すること、CO2を排出することを意味する。

(人に差し上げたり再活用しないで)山に廃棄、火力で焼却することがそんなにかっこいいことなのか。流行のSDGS(持続可能な開発目標)思考に合わないのではないかという。

 そして「捨てない生き方」を断捨離ブームの中あえて提唱する。旅先で手にした飲み物のコースター1枚が、何十年かあとの豊穣の思い出のよすがとなる。

 

翌日2022年2月4日の日経第1面見出しは「捨てない」経済とあった。「捨てない」が流行るかも。

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直前亡くなった慎太郎氏と同一年齢とのこと。今年90歳になる。

なお、氏が異常に靴にこだわる理由が少しわかった。

敗残兵か、引き上げ者か、いずれにせよ生き残れたのは歩けた人だけ。歩けなくなった人は道端でうずくまり、そのまま命を終える。生きるため、歩くため靴にはこだわりを持つと。

九州から上京するときも父親のお古の軍靴をはいてやって来、それを長年履いたとのこと。

これじゃ、湘南、ヨットの慎太郎氏と話が合うはずがない。

 

  

 

古代東海道 武蔵国⑧ 「谷根千 地図で時間旅行」を読んで

 森まゆみさんは自分の町と感じる「やなか、ねづ、せんだぎ」について25年間地域雑誌「谷根千」を発行してきた。

その地域について江戸開府以来、現在まで関係する地図を1冊に集めて町の歴史を読み解こうとする本が谷根千 地図で時間旅行」。(2015年 晶文社)

 

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1457年の「長禄年間江戸図」から古老の記憶に頼る鉛筆書きの地図までを駆使し、ご自身のファミリーヒストリーも交えての労作となっている。

 箱根駅伝じゃないけど、幕府、大名、明治政府、東京帝大、高度の文化人などがうごめく地域ゆえ、全国区的な話となってくる。

森さんは出発が出版社の編集者らしくお書きになる文章には文学性より雑誌の記事的気質を感じる。

前書きとあとがきに感じるものがあった。例えば

*江戸の痕跡はいかに多く残っているか。坂や橋の名、交差点の名にも。旧武家屋敷のあった台地上には現代の武士ともいえる国家公務員が公務員住宅に住んでいる。

20代で地域雑誌を始めた私ももう60で、十分土地の古老になった。

年を取れば取るほど、自分のかつてが懐かしく、思い出だけで生きていけるような気になる。レトロ(懐古趣味)と笑わないで。懐古も人生の楽しみの一つです。

 

本文で特に参考になったのが

 その1 「根岸谷中日暮里豊島辺図」

これはネットでも多く紹介されている重要な地図。陸軍迅速測図でははっきりせず、気になっていた音無川の姿がくっきり描かれている。大関横丁の大名、旗本の屋敷が音無川の流れを引き込んで?堀にしていることがうかがえる。古代からの道と言えるか微妙だ。

 

 

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 その2 松平屋敷

家光の信頼が厚かった知恵伊豆こと松平信綱の屋敷は戦前までは子孫の大河内正敏子爵(理研創始者)の邸で、その孫にあたる河内桃子さん(女優)もここで育ったという。

 

大河内正敏は最後の大多喜藩主の子。知人に同藩の城代家老の子孫がいて、子供のころ祖母と年始の挨拶に行くと河内桃子さんがいて祖母はおひい様とひれ伏したと聞いたことがある。その家かも。

 江戸時代の谷中・上野に関する切り絵を見ると不忍池があってその右側に必ずや松平屋敷の区画が描かれている。当時でもよっぽど広かったようだ。

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ただしそこが今のどこになるかわからない。それが森さんの本に紹介されている東工大名誉教授手書きの地図で、その家の跡がわかった。都立上野高校の向いのようだ。迅速測図に落としてみた。

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古代東海道 武蔵国⑦ 浅草から上野は考古学上重要地域

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関東の考古学という本があった(1991年初版、学生社)。執筆者7人中6人が関東の大学を出て関東の大学や公的機関で職に就いている中、一人同志社大を出てそこの教授をしている方がいらっしゃる。森 浩一という先生で大変高名な学者らしい。

 ちらっと拝見すると、やたらに関東のことに詳しい。門外漢・にわかファンの私がこのブログで触れた散歩レベルの千葉市花見川のことまで水上交通関連で深いところを書かれている。

学部や出身は関東?と思ったが生粋の関西人。一流の学者先生は日本中のことをこんなに深く勉強されているのかと驚愕かつ感銘。

 

その中でインパクトがあったフレーズがある。

利根川が現在のように銚子の方に流路を変えたのは17世紀の初め。昔の自然の流路の復元は難しいが(西関東の水は)、現在の隅田川や荒川にかけての一帯に出口が推定される。

浅草は古い川筋を考えると、関東全体で大変重要なところ。」とし、浅草から上野公園にかけてを明治・大正の頃の考古学者同様重視すべきことを述べている。

 

 

もう一つ興味深かったのが関東の地域構造について北関東と南関東にだけでなく西関東と東関東に分けて理解することを提唱する点だ。

西と東の間にすごい数の沼または沼の痕跡あることに着目している。東京低地とその北部の湖沼・湿地郡が東西関東の中間地帯となるようだ。見沼用水あたりは含まれる典型か。

西関東地域では埼玉古墳群、さらにさかのぼって前橋・高崎の大古墳群があること、

一方東関東地域では東京湾の千葉県側から印旛沼に至るまで陸路で行き、陸路が終わって船に乗って行ける場所に注目すべき竜角寺古墳群があることに着目する。

氏は近畿についてAルート、Bルートをわけ後者に属する奈良は結局Aルートに属する京都に権勢を奪われることになぞらえ、交通網の点で不利な東関東は西関東に劣位することになると言いたいようだ。実際そうかも。

ただし、近くない海上交通では「千葉県の木更津や市原のあたりは西関東ルート、東関東ルートともに使うという二重の意味で繁栄しますが、あの辺の古墳は遺物が大変豊富です。」と記している。

 

追記

① 大塚初重(はつしげ)氏は全国のおすすめ古墳の一つとして金鈴塚(きんれいづか)古墳

 を挙げる。ー 千葉県木更津市。後期古墳 —

 飾太刀21本、金鈴5個をはじめ200点以上の須恵器金銅製馬具などとてつもない量の豪華な副葬品が出土しており、中央の大和政権と相当濃厚な政治的関係を持っていたのだろうという。(2014年 「大人の探検 古墳」実業の日本社)

② 2021年10月7日だったと記憶するが東日本大震災以降久しぶりに関東に震度5レベルの地震があった。震源地は千葉県北西部でそこの震度は5、なのに離れた東京都足立区では震度6に達したらしく不思議がられた。東西関東の間に位置する縦の地域の地質構造に原因があるとする報道があった。