昔はなかった不忍通りを越えて団子坂下に入る。
実際は写真より急
横から撮ると傾斜がわかる。舗装がない時代、雨の時は大変だっただろう。
団子坂上に到着して振り返った。距離は短い。
右折すると(写真では左)公的施設がある。
反対側を見ると変わった建物が。
森鴎外記念館だ。
文人たちのサロンであったとか。
敷地320坪、建物101坪であった。当時としても極めて広い。
鴎外は生前から文学者として認められ、世俗的地位も高く、国際恋愛もし、立派なお屋敷も建て、と、はたから見ると恵まれた人生。能力があるのだからねたんでもしようがないけど。
薮下通りに面するこちらが当時の玄関入り口だったようだ。
薮下通り側から東京湾の海が見えたというのだから信じられない。
とにかく高台で、薮下通りは車も通らずとても雰囲気が良いところ。
一目で好きになる町並みだ。
隣は最近建った低層高級マンション?。お高いのでしょうね。
下の不忍通り付近でもバブル当時坪1500万したというから。
薮下通りは本郷台の中腹を南下する道。初めて知ったいい道だ。下の赤丸のように進む。左側に公立学校が二校並ぶ。
かなりの崖、高低差。
歩いていく。おしゃれな関西高級住宅地っぽいところ。
と、突然進行右側奥に緑のゾーンが見え、なぜか気になったので入ってみることにした。
「千駄木ふれあいの杜」という。説明文に驚いた。
太田道灌の子孫とあるではないか。
え?道灌は殺され、息子も殺されたと記憶する。お家断絶ではなかったのか。その子孫が平成28年に寄付とはどういうこと?
自然,植生の変移より人的継承が気になってしまう。
入り口右階段がある。
鴎外宅あたりは薮下通りピークでそこからこちらに下がってきて、その分本郷台地の崖が目立ってくるということか。
後でここを地図で見ようと思ったが市販の7000分の1の地図でもなかなか出てこない。広尾や南麻布と同じように都心の中でも相当な動機付けがないと行かないところだ。地下鉄が通る前は特にそうだっただろう。
道路際の地図が役に立つ。
太田道灌末裔 太田摂津の守のこと
実地踏査に行った後、千駄木ふれあいの杜掲示板にあった太田道灌子孫のことが気になって仕方がない。
そんな折、すでに紹介済の「谷根千 地図で時間旅行」にかなり詳細の記事があった。地元の人にとって長く家も残っていた太田家は大きな存在であったらしく、森さんも調べたのであろう。大助かりだ。以下一部紹介引用する。地図を前にしての説明である(26頁)。
甲府宰相 ー将軍家綱の弟綱重のこと― の上に太田摂津の名が見える。太田道灌の子孫で徳川家康は江戸入府の際、先住者と和解のため、その姫をめとった。お勝の方18歳(家康60歳)。世継には恵まれなかったが水戸徳川家の祖となる頼房の養い親となり、春日局と組んで秀忠夫妻の可愛がる忠長でなく家光を世継ぎに擁すなど、政治的な実力もあった。家光はそれを恩に着ていた。
そのころからある太田家の屋敷であるが、明治に入るとこのあたり、鴎外や漱石らが暮らす文化人の住宅街となる。