古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

リアルの体験とネット・文献での知見との差異② 高輪,二本榎通り

同じく3月28日の歩きについての想い。

 菅原孝標一行が歩いたここら辺の古代東海道ルートは済海寺のいわれはあてにならないがほぼこの二本榎通りでいいと思う。

理由:尾根筋の安定した地形である。下の旧東海道はまだ不安定箇所。

   遺跡も散見され、補強証拠足りえる。

 中流貴族菅原孝標一行の上総から京への旅は1020年なのでほぼ1000年後のことになるがこの道沿いに当時の最高上司である天皇の末裔である上皇夫妻が仮仙洞御所として住んでいた(撮影時)というのは感慨深い。(武蔵野国㉒でアップ)

高輪中高と東海大付属高輪台中高が隣接して立地していてわかりにくいが、どちらかが吹奏楽でいい成績を得たとのニュースを見て、ああ、あそこの学校がと、なつかしく思ったが、もうどちらだったが思い出せない。

リアルに歩くこととネット・文献で得られることの差異(1) 

 はやり病のこともあって、在宅勤務の度合いが多くなり、現地踏査ではなくネット・文献調査や問い合わせ調査が著しく増えている。

 それは簡易・簡便で経済合理性に富む。しかし得られる効果は一面的で当初の目的・企画を超えることはほとんどない。

 しかし実際に体を張っての行為だとその時は企図しなかったことでも後から、あれは

そうだったのかと気付くことが出てくるから不思議だ。

昔々、FM放送の番組をカセットテープに録音し、後で聞くというのが流行ったけど、今や全放送局の全番組を自動的にデジタル録音しておいて後から探して聞くことができる。これに近いような。

 いや、違う。

 

 去年少々歩いてそう感じることがあった。

 

3月28日朝、桜田門から歩き始め、建設中の虎ノ門超高層ビルの前を過ぎたあたりでちょっと変な雰囲気のシーンに遭遇した。(武蔵の国⓴)

これだ。

 

 

 

 

 

 

黒っぽい服を着た人の集団。

立ち止まり、変な動き。

撮影班だった。

しかし、数人ではなく10数人とかなりの人数。

テレビか映画か? 一切表示がなく不明。

その間を抜けるように歩いたが、どうも気になって少し戻った。

ふと道端を見ると1台の黒っぽいワンボックスカーが停まり、開いた後部ドアから男性が座ったまま身を外に向けている。

そして女性が男性の顔に何やらの作業をしている。

メイクさん?

男性の顔をまじまじと拝見した。まさかカメラを向けるわけにもいかないし。

 

異様な雰囲気というか、そんな顔立ちの人だった。

私、テレビとか映画、特にドラマ類はほとんど見ないので俳優の顔も名前もほとんど知らない。

しかし、その方の顔立ちは特異だった。

頭髪,ひげに白いものがみえる年配者だった。しかし、年配者に見られるあごや頬のたるみは全くない整いすぎるほどの顔立ち。

姿も長身痩躯というのか優れていた。

主役級なんだろうが、なんという俳優なんだろう。気になって仕方がなかった。

時間ももったいなく、じろじろ見ているわけにもいかないのですぐに立ち去ったが。

 

後日テレビのニュースを見て、え?

あの朝撮影現場で拝見した俳優さんそっくり。いや、年齢、あまりない顔立ちからしてその人自身ではないのか。そう思えてならない。

渡辺裕之さん66歳。奥さんは原日出子さんという方。

 

そういえばどこかうつうつとしたものを漂わせていた。

 

今になって道路際に鳥居の見える変な場所が気になり調べると。

虎ノ門金刀比羅宮だった。

 

参考(引用)

Teruya Koga

万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。 当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治二年(1869年)、神仏分離神祇官の沙汰により事比羅神社に、明治二十二年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至っています。 ご神徳は海上守護、大漁満足は勿論のこと、五穀豊穣・殖産興業・招福除災の神として広く庶民に尊信され、東国名社の一つとして知られています

二つの有銘鉄剣と二人の学者(その2)

大塚初重(はつしげ)さんの「東国の古墳と大和政権」に移る。

2002年、山梨県で公職にあった時の発刊だ。1926年東京都生まれとある。当然載っていないが、今年2022年、お亡くなりになっている。

 

Ⅲ1「王賜」銘鉄剣と房総の古墳という段章で稲荷台1号墳の鉄剣についてかなり詳しく述べている。

☆ まず、千葉県内の古墳の数が多いことを述べる。

 付記で補正されている平成12年の数字では前方後円(方)墳     717基

                     円墳      6666基

                     方墳      1042基

                     円-方不明    504基

9000基だ。ものすごい数!全国的にも言えることだけど(16万基とか)これじゃ発掘発見してもすぐには詳しい調査はできない。

9000基が県下に均等に分布しているかというとそうではなく、前方後円墳についてまとまりというかブロック化していることを指摘する。(分布図を見れば一目瞭然だが)

 東京湾沿岸ブロック

 山武郡九十九里沿岸地域ブロック

 印旛・手賀沼ブロック

 香取郡を中心とする小見川・佐原ブロック

 一宮川流域ブロック

 ここで先月だったかの新聞記事を思い出した。千葉県下の経済ニュースだったと思うが今後の千葉県の効果的な経済発展を目指してのブロック化を挙げていた(うろおぼえ)。

 1 東京湾岸エリア

 2 東葛地域

 3 成田空港地域

 2について他県の人は知らないと思うが東葛とは茨城県にも近い千葉県北西部で柏市とか最近脚光を浴びている流山市などがあるところ。つくばエキスプレスが通り、秋葉原に直結して便利になっているし、全国区の組織ー東大柏キャンパス、がんの国立東病院などーが来ている。

 一定の理由があれば一定のゾーンに人が集まり、それがさらに他の発展の要因となるというのは大昔も今も変わらない。

☆ 氏は河川の下流域、特に東京湾沿岸に有力な前方後円墳が集中していることに注目し、中央の大和政権は関東から東北を狙う際にこの地域(市原、姉ヶ崎、木更津、君津、富津)を東国を支配するための拠点づくりの橋頭堡として相当に重要視していた傾向があるのではという。

 橋頭堡なんていう言葉を聞くと、ウクライナが川の西岸を奪還した後、一部東岸に渡河して国旗を掲げたがそのあたりを橋頭堡として進展していくのではないかと言われていることを思い出してしまう。昔と今、海と川、日本とヨーロッパの違いはあるが本質はかわらないのでは。

★さて、市原市稲荷台1号墳出土「王賜」銘鉄剣について

 直径27mの円墳というこれまでの考古学の研究からするとそれほど重要視されてこず出土したものも前方後円墳のものより質と量で劣るとされてきたようだ(氏はよろしくない姿勢だという)。

本品も、他の出土品と共に十数年前に発掘され市原市の倉庫に収納されていたものを調査に関係していた市原市文化財センターの田中新史さんが研究の過程で佐倉にある国立歴史民俗博物館に持ち込んでX線に撮るなどして大発見に至っている。

 

(埼玉県行田市稲荷山古墳の鉄剣も昭和43年発掘→10年間展示ケース内→昭和53年奈良の元興寺文化財研究所でレントゲン撮影で銘文確認→国宝へ となっていて似ている。

古墳が多い→発掘が多い→人手の関係もあって調査が追い付かないというのが全国的傾向のようだ。)

 

★被葬者について

 氏は次のように言う。

中央の大王家から直接剣を受けるような豪族は前方後円墳に埋葬されるような有力な首長。彼が手にした「王賜」銘鉄剣をいろいろな事情があって彼の配下である稲荷台1号墳の下級の小豪族にこの剣を渡したのであろう。

東京湾沿岸、市原周辺における重層的な権力構造がうかがえると。

 そうだろうか。時の総理大臣が遊説に来たとしてもいちいち県警本部長が身辺警護の任に当たるだろうか。ウクライナ大統領が前線で兵士激励のために勲章を渡すのは参謀クラスではなく現場下士官クラスではなかろうか。

そばで実際に身辺警護してくれた若い者=小豪族の一員に渡した感じがする。

古道のルート探索と地域の古墳や豪族の視点

 江戸時代の旧東海道と異なり、古道のルート探索の裏付けとなる資料は極めて乏しく、すぐに呆然自失状態に陥ります。

 そんな中ある程度合理的なものとして推測、依拠できそうなものが地形です。昔海(川)だった、大雨で出水しやすそう、がけ崩れが起きそう、歩くには急峻すぎる、高低差があって荷物を持っての進行には辛そう、目的地まで不要な遠回りとなる、飲み水の確保が難しいといったルートは誰でも避けるのではないでしょうか。

 これに人間の歴史性を加味したものとして律令制以前の人々の営み、すなわち弥生末期から古墳時代の人々の生活歴が参考になるのではと考えるに至りました。最もわかりやすいのが古墳です。古墳時代とそのあとで人の生活に極端な断絶があったとは考えられません。古墳のそば、あるいはそこに至る道があったはずです。使える道は使ったはずです。

 そんな折、目にしたのが「神奈川における駅路に関する一考察」という論文です。小方武雄氏は次のように述べます。

「7世紀後半~11世紀初頭にかけて,律令体制の整備に伴い駅伝制が行われ,駅路が全国展開することとなる。~ 具体的に何処を通っていたかについては従来様々な説がある。今回はそれらの視点に加え,古墳や地域の豪族,「延喜式」に掲載された式内社,直線道路のさらなる活用などの視点を加えて検討を行った~」

そして「古墳の存在する地域、作られた時期などは駅路が始まったであろう7世紀後半とは何の関係もないという考えもあるが、7世紀前半の620年には国造が存在していることだし、それ以前から豪族と都との連絡はあっただろう」とも述べます。援軍を頂いた感じです。

 こんなこともあって、(単なる興味もありますが)周囲の古墳も見ていくことになりました。

二つの有銘鉄剣と二人の学者 (その1)

 

白石太一郎氏

 千葉県の古墳についての白石氏の著述が散見されるので、千葉県の文化課、埋文など関係部署の公務員かなと思っていたら歴博の先生だった。

それはどうということはないのだけれど履歴を見ると関西の大学を出て畿内で研究をされていた方。どうして「あづま路の道の果てよりも、なお奥つ方」の地までやってきたのだろうかと?だった。

 井上光貞氏の招聘があったようだ。井上氏は東大文学部教授定年退官の後歴博設立準備室長を経て1981年歴博初代館長に就任している。井上氏が見どころがあると思ったのであろう。

白石氏もかなり悩んだらしいが招へいに応じ、東国、畿内双方で優れた結果を出しているので本人にも東国の学会にもプラスになったと思われる。

 

井上光貞氏(1917年~1983年66歳)

 そこで今度は井上光貞氏の学者としての経歴に関心が湧き、たまたま手にしたのが上の本(2004年 日本図書センター)。

 井上薫桂太郎の孫として生まれ東京帝大を出て東大教授。これだけをみると恵まれた順風満帆の学者人生かに思われるがそうではなかったようだ。

 病気をしたこともあり、「自分の属している特権的な身分や階級に対する憎悪も」激しくなったようで同級の伯爵の息子有馬頼義(のちの小説家)と共に学習院の中等科を捨てて成蹊高校の尋常科に入っている。(今の弟宮が娘を途中からICUに進学させたのと似たような思いがあるのか。)

14歳で皇族の血をひく母を失い、病気の再発もあって休学もし、帝大文学部国史科に入学したのは23歳となっていた。

 学問上の苦難・努力は学者なら誰もが負うべきものであろうが,氏はあの東大紛争で学校側の当事者になり随分と苦労している(昭和43年)。法学部の故藤木英雄教授、大河内総長、加藤一郎総長代行、林健太郎など新聞で見た名前が出ている。

大学最終講義終了の後のあいさつで、東京大学の教壇に立つことで鍛えられたこと計り知れないが任務の重さは毎日毎日が苦痛であったといっている。

 

武蔵稲荷山古墳の鉄剣銘文

 さて、本論。氏は定年退職後の最大の事件は今のところ退職年1978年に公表された武蔵稲荷山古墳の鉄剣銘文であったと興奮気味にいう。

その理由は氏がこれまで描いてきた古代史像と銘文の内容が一致することが多いことにあるという。そしてその2点について説明した後、他で触れていない3点目として銘文八代の系譜に書かれている文字から次のように言えるとする。

「 5世紀代の天皇は、まだ専制君主ではなくて、国造クラスの地方国家の王たちとともに”国王共同体”を形成していたので、共通に「ワケ」の称号を名乗っていたのである。ワケは「別」とも書くが「血」と「統治権」とを分割するの意ではなかろうか。

 一方5世紀末の第八代目から「臣」を名乗るのであるが、「臣」は6世紀から7世紀中葉までの金石分の人命の書き方に照らしてみると、明らかに「カバネ」(姓)のオミであることもわかった。

カバネは君主たる大王が、この場合なら、地方の国王に授けるものであるから、これまで獲居(ワケ)なるプレ、カバネを名乗ってきた地方の国王が「臣」(オミ)なるカバネを称し始めたことは、いままで「国王共同体」を形成していた大王と地方君主の間に、大王を頂点とする支配と隷属の関係が生まれたことを意味するだろう。

 銘文の内容は以上のように私の5,6世紀像と一致することが多い。それで私は銘文に異常な関心を持ち続けるのである。」(同書298頁)

 

ー 続く ー

古墳時代の開始時期と神門(ごうど)古墳群

 古墳が盛んに作られた時代を古墳時代と言うが、もう少し丁寧に見ていこうとすると古墳の定義の問題も絡んで簡単ではないようだ。

古墳時代の開始時期については大きく二つに分かれる。

 A説 3世紀中葉から後半における箸墓古墳のような定型化した前方後円墳の出現を古

   墳時代の開始とする考え

   この立場は必ず「定型化した」という文言をつける。なんだか団藤重光の「刑法

   綱要」を読むような気がしてしまう。科学にそのような規範的、観念的文言が馴

   染むのものなのかはさておき、この立場は次のように古墳時代を時期区分する。

   前期 3世紀中ごろから4世紀

   中期 5世紀

   後期 6世紀

   終末期 7世紀以降

 B説 A説より1段階前の3世紀前半から中葉の「纏向型(まきむくがた)前方後円墳

   出現と波及を画期とする立場

 C説 小林孝秀氏(専修大)は

   A説を基調としながらも「一方で弥生時代から古墳時代への移行期における動き

  についても中央―地方相互で実際の資料に即して把握していくことが必要であるた

  め、3世紀前半から中葉の時期を広義の出現期、古墳時代への移行期ないし転換期

  として扱う」とする。*

  * 松戸市史上巻(改訂版)3章2節

 

 神門(ごうど)古墳群については白井久美子氏が千葉県の歴史資料編考古2で5ページにわたって詳しく説明している。

有名な、3,4,5号墳の3基のほかに円墳(1号墳)、小方墳(2号墳)、方墳2基がありこれらを総称して神門(ごうど)古墳群と総称するとのこと。

 最初に調査されたのは南端の神門5号墳で(昭和24年、早大)、当時は大型円墳と認識されていたが昭和50年以降の後の調査でこれら神門(ごうど)古墳群が畿内型の大型前方後円墳に先立って築かれた定型化以前の古墳であることが田中新史によって呈示されたとある。

 「弥生時代後期と古墳時代前期前半との間に新たな段階を認めて「古墳時代出現期」が区分された最大の根拠は、神門3基の列島内での位置づけによる」とのこと。

それなのに「神門(ごうど)古墳群は、5号墳(市指定史跡)を残して宅地化された。歴史的構造物の評価が将来に問われる機会をもたないまま開発が進められた時代の遺産でもある。」と結んでいる。

 

2021年9.23撮影の実写版を以下に

住宅地でかえってわかりにくい。公園に神門とあるのでこのあたりだろうと期待

少し遠くを見ると、遺跡につきものの常緑広葉樹が。

そうだった。ひっそりと立て看板が一つ。隣は墓地。



ただし入って,登れるのがうれしい。

説明文をよく見よう。白井氏とちょっと異なる点もあるがほぼ同じ。

 

「そうだ京都行こう」で京都へ行って、千年前とか千二百年前とかの歴史を聞かせられるけどここは間違いなく千八百年前から不動の土地。

 感じるものは大きく深い。

 

 

上総の国⑭ 稲荷台1号墳記念広場の風景

上総の国⑦で有銘太刀出土の稲荷台1号墳記念広場あたりの地図はあげているが復元古墳の実写真はあげていないと思うのでそれを。

(ちょうど約1年前撮影)

 国道297号わきのはずだけどわかりにくかった。遺跡って見に来る人は多くないせいか周囲に案内表示はないのが一般だ。

遺跡じゃないけど樋口一葉旧宅の時同様にあたりを徘徊してやっと見つけた。

山田橋というバス停そばに入り口がある。

 

 

削平された遺跡上に立つ住宅に挟まれて近隣公園サイズの記念広場が。

小さな、よく幼稚園、学校にある遊戯用の砂山のよう。

 

以下説明文

 

市原市教育委員会発行の「市原の遺跡4」はわかりやすくよい一般向け資料だ。

例えば、次の表。

法隆寺そばにある藤ノ木古墳(ここは無盗掘の金銀ザクザクという感じだった)の百年前にできていることが理解できる。

なお、この資料は、刀剣を下賜した大王は倭王「済」にあたる履中、反正、允恭いずれかの大王ではないかと推測している。

 

追記)上の年表の上を見るとこう。

最も古い古墳(前方後円墳)は奈良県桜井市にある箸墓(はしはか)古墳とされているが

それよりもっと前、卑弥呼の時代より前にいちはらに「神門(こうど)古墳群」ができている。形態も前方後円墳らしい。どういうことなんだろう。

上総の国⓭ 「王賜」銘鉄剣 稲荷台1号古墳と市原歴史博物館オープン

2022.10.28朝日新聞でかなり大きく取り上げられている。関東だけかもしれないが。

有銘鉄剣の出土としては埼玉県行田市の稲荷山古墳が有名であるが(国宝)、此れより古い西暦400年代前半に作製されたとみられるのがここ千葉県市原市稲荷台1号古墳から出土した「王賜」銘鉄剣。

 いずれ国宝に指定されるだろうが(日本最古)、これが新博物館に展示されるようだ。

しかし、大化の改新(646)より、高松塚古墳(694~710年)より古く、今年は10月29日から展示開始の正倉院(聖武天17忌756年)より300年前の製作物。畿内の大王が上総の豪族に下賜したものと推察されているが、当時の東国の豪族のありようはどうだったのか専門家、学者ならずとも興味深い。

こんな貴重な出土品が出たのに古墳群があった場所は削平宅地化され、1号墳の周溝にかかる部分が記念広場になって1/3縮減の復元物があるだけとはやり切れない。

稲荷台古墳群については「千葉県の歴史 資料編考古2」に詳しい。白石太一郎氏が解説し、文献として滝口 宏ほかによる市の概報を掲げている。

 

 

 

 

新聞記事を読んで思うこと

   

 

上は読売新聞地方版(千葉)の記事

これを見て思うところがとても大きい。

① 新聞、テレビなんて見ない。ネットニュースで十分という意見が流行であるがこれはネットに出ないだろう。この記事を見ていない人は知らないまま終わる。

② なんとなく全国版記事がより価値があるかに思われがちであるが、地方版にしか載っていないのであればその分野に関心を持つ者にとっては地方版こそ有価値ということになる。全国記事になるもの、例えば高松塚発見!などはそこらじゅうで取り上げられるので特定の媒体に限定して有意性が認められることにはならない。

 公立図書館の「地域情報」コーナーがオンリーワンの宝の山と思われているのもそううことだろう。

③ ところで左の写真(9.23)は市川市国分にある国史跡「北下瓦窯(きたしたかわらがま)跡」に関するものと木更津市(上総国)の「金鈴塚古墳」に関する二つの記事になっており、右の写真(9.24)は下総国国府が置かれていた市川市国府台の「国府台遺跡」に関するものであるが、そもそも

 北下瓦窯(きたしたかわらがま)跡は2004年東京外郭環状道路の建設に伴う発掘調査で出土しもの

国府台遺跡は県営住宅の建て替えに伴う2016年からの調査に関連するものとのこと

 遺跡関係の発見と公共工事との関連性は相変わらず強いようだ。公共工事は考古学にとって害悪なのか発見の端緒となる恩人なのかどうなんだろう。

④ 考古学関連の記事を二日連続で出すということに良い意味で思うものがある。

千葉地域版の記事編成に決定権のある幹部記者が考古学というか歴史に関心、理解を持っているということだろう。他紙では記事にならなかった以上そう言って間違いなかろう。 逆に怖いことも。当該記者が人事異動で去ったらどうなるか。

いや、読売新聞社は秋の正倉院展の主催者にも連なるから社としての関心が高いのかも。

 人気ユーチューバーひろゆき氏は文系人間であるが、歴史で古墳のことを勉強することに何の意味があるかと公言している。こういう人が支局長なら二つともボツ記事になる公算が大きい。

 この種のことはいろんなところで生じる。学閥、有名大学の同窓会組織、出身地域による広義でのひいき・偏見などと。

同じグループに属するものには暖かく接し、能力のあるものなら引き上げる。しかしグループ外の者には優しくないとするなら問題だ。

 関東のある学者が学会で東国に関するある発表をしたら伝統的畿内の学者先生に(遅れている)東国にそんなことがあるはずがないと一蹴されたそうだ。

ある考古学者の文献を読んでいて面白いことに気が付いた。西国の国立大学の教授時代の著述には東国の遺跡に関する記述はほとんどなかったのが国立歴博(佐倉市)に異動後の著述には出るようになったのだ。

 学者である以上新聞以上に広く公正な取り上げを期待したい。

書店と書籍

総理は夏休み前に八重洲の書店で10冊の本を購入したとのこと。

東京駅前八重洲ブックセンターだろう。職場が近いときは結構行ったが,今はいくことがない。

今日ある大きなターミナル駅の駅ビル内にあるくまざわ書店に寄った。

驚いた。

考古学、古代の歴史などお客が多いとは思えない分野について専門コーナーを設けて大変な充実ぶり。

そこら辺の公立図書館にない本が目白押しだった。

くまざわ書店ってかなりの目利きの社員がいる感じがする。本を愛する社員が多い感じがする。

店内を見ればすぐわかる。

 

ビル建て替えで休業に入っているらしい神田の三省堂書店の方が私にとってはなじみがあるのだけど、社員の職業意識が希薄に感じることが数回あった。

過去の伝統だけじゃ組織はやばいですよ。M財閥グループ企業の不振ぶりを見ているとそう感じる。

 

もう書棚がいっぱいで増やしたくはないのだけどいい本があった。2千数百円するがマイナーポイント2万円の有効支出として購入。

これまで古墳に関する書籍というと西日本、畿内中心か、それへの対抗としての「東日本の」とか「東国の」というものが多かったがこの本は小ぶりな判に全国256地点約350基の古墳を選定し、カラー写真など必要資料を相当に詰め込んでいる。

 今月8月1日という最新の発行であり、古墳についての資料・著作は新しいほどよいという定説にも合う。

また、全国の古墳数は16万基もあり,それぞれの地域でおらが村自慢的見地からこれは重要という。しかしそれに溺れてしまっては他地域の重要必須古墳を訪れることがができなくなってしまう。

著者が一定の選択基準で選んでくれているのはその点で意義あるものと思う。

読みやすく工夫された編集になっておりかなりの購読者数になるであろう。

ただ、せっかくの内容なので判を少し大きくして年配者にも読みやすくした方が良いとは思う。

 

著者は青木敬(たかし)氏。1975年生まれの優秀な若い国学院大学教授だ。

先ごろ明治大OBのカリスマ的考古学者が90数歳でなくなったがファッション界のみならず考古学会でも世代交代がみられつつある。