古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

更級日記東京の道⑧ 明治大西側遺跡 、江戸城

ここで、少しお茶の水界隈に戻る。

東京医科歯科大には貝塚遺跡があり、前回述べたように一ツ橋2丁目には複合遺跡がある。

明大通りより西に古代の道があったとするなら、そのあたりに何らかの痕跡があってもおかしくない。ないのだろうか。

そう思っていたところ次の書籍で明治大西側遺跡なる文言を見つけた(遺跡地図3)。

 日本の古代遺跡 32 東京23区 坂詰秀一 昭和62年 保育社

 

しかし、他に書いている書物は見当たらない。なぜだろう。

そうだ、せっかく御茶水を歩くのだから本家本元、明大博物館に行って聞いてみようと立ち寄ることにした。

昼だったので担当の古代史学芸員を待つことに。

戻ったので早速聞いてみると20年この仕事をしているが「明治大西側遺跡」なるものは聞いたことが無いとのこと。

えー? どういうわけ? 

上の本の名を言うと研究室に戻って調べたようで「確かに載っている、編者は信頼のおける人」「しかし聞いたことが無い、パソコンで調べたが出てこない」

結局、そのままで終わった。

 植村直己展が開かれていたので初めての明大博物館は無駄にはならなかったが。

 

<その後>

 なんと「一ツ橋二丁目遺跡報告書」中の千代田区内の遺跡一覧に項目として挙げられていた(4頁)。

 №13 明大大学院西側遺跡 千代田区駿河台1丁目 縄文時代 集落跡

 集落があったとは心強い。

 

さて、平川門から皇居に入ったが、思った以上に公開範囲は広い、江戸城の主だったところは見て回れる。

桜田門までは直行できないので、いったん大手門から外に出て外苑を通って向かう。

更級日記東京の道⑦ 皇居 — 平川門から東御苑 —

高台の平坦地、それでいて水辺からほど近いところには遺跡が多い。

土地について人が求めるところは昔も今も変わらないようだ。

一ツ橋2丁目遺跡から見てかつての日比谷入江の対岸にあたる台地上(北の丸)には国立近

代美術館遺跡があり(下の写真)、皇居内には旧本丸西貝塚遺跡ほかがある。

京へ向かう過程で平川の微高地から麹町台地(まだお城はない)を上がり、現東御苑相当

箇所に入るのは地形的に自然の流れだろう。

平川門を入って直ぐ書陵部に進む手前に梅林坂がありその説明板になんと「この地に最

初に城を築いた太田道灌が、このあたりに天神社をまつり、数百株の梅を植えたことか

ら梅林坂の名がついた」とあった。

 



 

 

太田道灌は東京都と縁が深いし、菅原道真5世の嫡孫が菅原孝標だ。両者を少し見てみ

よう。

菅原道真(845~903年)は学問の神様と言われるが、一点、遣唐使を廃止に導いただけで

も国際情勢を含んだ世の動きを見る力と既成の流れを断ち切る実行力になみなみならぬ

ものを感じる。太田道灌(1432~1486)が守りの拠点としてこの地に江戸城を築城したの

室町時代後期、1457年。道真歿後550年も経っている。九州、畿内を遠く離れた東国

の地にそこまで影響力が及んでいたのか。

 

ここで思い出したのが下総との国境に近い上総(現市原市古市場)の町はずれでたまた

ま目にした鄙びた小さなやしろ古市場天神社だ。

https://chiba-furuichiba-tenjinsya.jp/history.html

 

平安末期から鎌倉初期にかけてそのあたりに館を持っていた高嶋恒重(千葉氏の家臣)が12世紀末に道真を祀るため建立した神社とのこと(高嶋天神社とも)。武将間での道真=天神信仰は古くから広範に及んでいたようだ。

 さて、太田道灌は1486年主君の扇谷上杉氏の命で暗殺されているが、一族は滅亡して

いなかった。徳川家にも厚遇され、前に触れた千駄木の薮下通り近くにある「千駄木

れあいの杜」*は太田備中守資宗が3代将軍家光から拝領した下屋敷跡地で子孫が平成28

年に文京区へ寄贈し都市公園となったものだ。両家の現在につながる長い歴史、そして

混乱の中でも何とか歴史をつなげられる日本らしさを実感する。

 

 *  千駄木ふれあいの杜

 

更級日記東京の道⑥ 発掘調査報告書「(東京都千代田区)一ツ橋二丁目遺跡」について

 

 この報告書は論述内容、図版、写真、まとめの表のほか、紙質・印刷等も含め大変に充実したものであり、一部の人にしか知られていないのはもったいない。

幸い、古書店から原本を取得できたのでごく一部であるが紹介させていただく。

 

<例言>

 旧一ツ橋講堂跡地(千代田区一ツ橋二丁目1番地)に建設される学術総合情報センター建設に伴う事前調査に関する報告書である。

 発掘調査についての費用は文部省、整理調査から報告書刊行までの費用負担は学術総合情報センターが負担。

 発掘調査は文部省、学術総合情報センター、千代田区教育委員会三者協定に基づき設立した「遺跡調査会」が、調査実務は「遺跡調査団」が行っている。

 発掘調査は平成8年5月27日から同年9月20日まで

 発掘調査報告書発行は平成10年3月20日

  団長 長谷川章雄の指導の下、各担当者が分担して執筆している。基礎編集作業は

  後藤宏樹が当たっている。

 本調査で検出された諸資料の保管・活用及び報告書の版権は東京都千代田区教育委員会保有するとのこと。

(以上「例言」より )

断片的であるが基本的あるいは注目した個所を一部引用紹介する。

 

<歴史的な環境>

・本遺跡は、古墳時代後期から近世複合遺跡

千代田区内での近世以前の遺跡の内、弥生時代から古墳時代前期までの遺跡分布は谷を望む台地上に広く分布しているが、古墳時代から古代の遺跡数は比較的少ない。

 古墳時代後期以降になると平川流域に集中する傾向が窺える。

・区内に古墳は発見されていないが、本遺跡のほか皇居内や北の丸、九段坂上貝塚など平川を望む台地周辺の遺跡から埴輪が出土しており、集落の分布と共にこの地域の古墳の存在を示唆している。

<地形上の特徴>

・台地と低地の境界部にあたる本遺跡は、神田川下流となる旧平川が開析した広い谷に該当する。一ツ橋から大手町・丸の内・皇居前付近にかけての旧平川流路は、縄文海進時に堆積した有楽町層がみられる地域である。

・発掘調査等によって本遺跡は旧平川左岸に位置し、有楽町層上部には古墳時代以降に

堆積したと考えられる黒色土層が確認された。これによって、本遺跡の自然環境は、河川際の微高地であったと推定され、自然科学分析によって水の影響を受けやすいジメジメした環境であったことが判明した。

 

<遺跡概要―近世以前の調査成果>

・16世紀前半以前の道路址(095遺構)は、側溝を有する幅2mの砂利道であり、中世江戸城のある本丸台地の方向から北東方向の本郷台地に向かっていたと指定される。

この遺構は幹線道路とは考え難いが、この地域には古代の東海道や中世の鎌倉街道下ノ道が存在したと推定されるため、、これらの道路との関連性も考えられる。

 

<8章2 平安時代の遺構と遺物>

・本遺跡周辺では、9世紀代以降に古東海道の推定駅路が北走すると考えられ、東京国立近代美術館遺跡では9世紀代以降に位置付けられる一般集落にない遺物が出土している。また、本遺跡でも9世紀代以降の集落の編成がとらえられている。

 このように本遺跡周辺の東京湾岸に沿った地域では、9世紀代の古東海道の駅路の変更に伴う集落の再編や律令制下の地方権力機構の介在が示唆される。

更級日記東京の道⑤ 神田小川町→神保町→錦町→一ツ橋2丁目遺跡へ

 錦華公園・お茶の水小と明大図書館の間の細い錦華坂Eをまっすぐ南下すると(建物を度外視)、三井住友銀行Cにぶつかる(神田小川町3丁目)。

ここら辺、昔々はどんな道路付だったのか不思議な三角形のゾーンだ。靖国通りに向かって立つ銀行Cの東側丙は富士見坂、西側乙は錦華通り。三叉路あるいは4叉差路ということになる。

 

 

 

 

銀行Cから南の靖国通りを見るとこうなる。

 

銀行の正面は三省堂(現在工事中)とその前に立つ低層の古書店であり、狭い道を挟んで右(西)に書泉グランデのある一角が続く(神田神保町)。
 皇居方面への方角からすると玉英堂書店脇の細い道が直線性に富む。

 

しかしこの先、行く手はまもなく巨大な神保町三井ビル(23階)にさえぎられてしまうので書泉と小宮山ビル間の道を進むことにした。

スズラン通りを越える。

 

 

段々、人のぬくもりが希薄なオフィス街になって行き、寂しくなる。

 

神保町1丁目交差点

 

税務署前交差点

まっすぐ進み、402号道路にぶつかる(☆)。ここに信号はないが、少し西(地図で上)には一ツ橋河岸交差点が、東(下)には錦橋交差点がある。

白山通りを越え、一ツ橋2丁目遺跡へ寄ってから平川門へ入ることにする。

 一ツ橋河岸交差点の一角「一つ橋2丁目」区域は一橋大関係の施設が建ち並ぶが最近は千代田区一ツ橋2丁目遺跡の発掘調査で注目されている。

 注)2018年発行の発掘調査報告書は内容の濃い優れた刊行物

古墳時代から古代、中世、近世に至る長期にわたる遺跡が発見されており、神奈川県の長柄桜山古墳群同様古道を考える上でも重要箇所だ。

研究者芳賀ひらく氏もこの調査を踏まえて、「一ツ橋は本郷台地と麹町台地の谷間、旧平川河口近くの低地で、古墳時代から集落が存在していたことが明らかになっている。 検出された中世の道路遺構は北東すなわち本郷台地を目指していた。つまりこの遺跡は中世江戸城下のムラの一部で麹町台地と本郷台地をつなぐミチの結節点に存在していた。」と述べる(「江戸東京の地形の謎(2020年新版))。

 遺跡発見の場であることを記す表示が全く見当たらず、聞いても答えてくれる人がないのは残念。優秀な大学であることは論をまたないが文学部系統の専攻がない故か。

 

 

学術総合センターは共用になっている建物。いろいろな組織が入っている。

 

 

 

 

右に曲がれば皇居平川門

東京の道④ 神田駿河台2丁目から駿河台下へ 

 もういちど、神田山の裾野、駿河台下までを見てみよう。

 

神田山の尾根=標高の高いところをイメージしながら歩くとすると、今現在では254号(春日通)以南のルートはこうなるだろう。

 文京区立本郷台中(東側の一方通行)→本郷給水所公苑・水道歴史館(東側の一方通行)→順天堂大と病院としての順天堂医院の間の道路をまたぐ連絡廊下→外堀通り(順天堂大前という信号名が付されている交差点の一つ西側)。

教育施設箇所まで足を延ばすことはないのが一般だろうけど途中の道を含めて落ち着いた静かないい道だ。

 

 

 神田川を越えるとJR総武・中央線。

 

 

その先は日新火災の大きなビル(両脇は東がお茶の水美術学院、西が東京医科歯科大の研究所)にぶつかる。かえで通りを越えると前述の三楽病院や浜田病院のある一角となる。

 

 JR御茶ノ水駅を降りて駿河台下まで書店、楽器店、スポーツ用品店目当てで歩く人は多いがほとんどは明大通りの広い道を利用する。この道より西側に入る人は病院、明治大、日大理工学部等に関係する人が中心となりそれ以外では激減するだろう。

私自身三省堂に行く途中、交差点から山の上ホテルをちらっと見るだけで足を踏み入れることなく〇十年と過ごしてきた。

 それが、たまたま千年以上前の古道を考えるに際して「分け入る」ことになり、不思議なものを感じてしまう。

大昔の雰囲気など残っているはずがないと思うのがむしろ普通かもしれない、しかし歩いてみるとそうではなかった。起伏が多い、広くない道が多い、近現代的都市計画なら統廃合するはずの道が不用意にも?残っているなど昔の山道を思わせるような香りはまだ残っている。

神田川の両側を含んでの概略的な想定ルートはこうなる。

 神田駿河台2丁目は三楽病院、浜田病院など大規模建築物が建てられていて大昔を偲ぶよすがとなるものは高度・地形以外ない。

 浜田病院と駿台予備校2号館の間の一方通行の道→とちの木通りを越え→出版健保会館と駿台外語&ビジネス専門学校内の間の道→錦華坂に入る→すぐ左手には山の上ホテル、右手には漱石も在籍した錦華小(現在はお茶の水小に統廃合)がある。

なお、錦華坂は神田駿河台1丁目と神田猿楽町1丁目の行政境となっている。

 しかし錦華坂もお茶の水小と明大図書館に挟まれた四つ角で迷うものがある。次の地図に移ってEの地点だ。

 

 Aは駿河台下という名前がついている大交差点だ。角には黒沢楽器店がある。しかしB交差点にはこれも大きな交差点なのに名前がついていない(Cは三井住友銀行、Dは石井スポーツ)。至近距離の二つの信号に名を付すのはかえって混乱を招くからか。

 錦華坂が古い道だとして昔々はEの先はどういうルートだったのだろうか。本郷からの流れ、これから先の一ツ橋への流れからするとEはBに連なっていたのではと考える。

ふるい歴史ある結節点B、そして1600年あたりから新興結節点Aができたと考えたい。

道路わきのこの地図、南北は逆だが上の地図と合わせて参照を。

Eの狭い四つ角にはウイルボッサというおしゃれな外観の美容院がある。

 



* 山の上ホテルから見下ろす明大通りで神田山の高さが実感できよう。



 

 

 

東京の道③ 本郷通り3丁目から神田方面に

 本郷通に入って皇居方面に向かうとしても順天堂大の先で神田川が掘削されていて、橋もないから直進できない。

川に沿って左折し、東京医科歯科大(お茶の水貝塚の遺跡あり)前の御茶の水橋を渡るしかない。

 しかしその道(駿河台下交差点に至る明大通り)は最早尾根道とは言えない。神田山が掘削される前は当然ながら尾根道をまっすぐ南下したはずだ。

神田川の南側には千年前の神田山の連続した地形の残存がみられるはずだ。

御茶ノ水駅交番脇の「かえで通り」に入ればわかりやすい。これは交番前の地図。

 

かえで通りは昔から美術、音楽関係の店舗・施設があり雰囲気のよい道だ。

後で出てくる公立学校共済組合本部は東京芸大付属高校跡地ではなかったか。

写真ではわかりにくいがはっきりした坂道

かなりの急坂。下は三楽病院(東京都教職員互助会)

少し先の公立学校共済組合本部あたりがピークで、この先は下りとなる。

北からの尾根道はここら辺につながっていたと考えたい。

明大通りはかなりピークを下がっているところの道筋ということになる。

ここら辺から逆算というか北側を考えるとさらにもっと手前本郷3丁目あたりからすでに尾根トップを外れ,変容された中腹の道を通っているのではと推測されてくる。

 江戸幕府は山を削り、海を埋め、川を付け替えるトップクラスの土木工事企業体だ。古い道路の姿をそのまま残している保証はない。居住者増に応じて道の改編など容易だろう。

もう一度Uターンして見直すことにした。

本郷3丁目交差点を西に曲がるとかなりの傾斜があるのがわかる。何しろ先は真砂坂上だし。



私は川柳「本郷もかねやすまでは江戸のうち」で有名な「かねやす」のやや西となる本郷台中学校、本郷給水所脇を通り、まだ開削されていない神田山をそのまま歩き、現在の川向こうに進んだと考える。

 

 





 

 

 



 

三楽病院、明大西側、錦華公園あたりを下り、靖国通りをクロスして現三省堂・書泉あたりに入ったのではないか。

東京の道② 谷中から本郷通りへ

 さて、現日暮里駅付近の坂を上り天王寺付近の豊嶋駅に着いたとして次の大井駅家(現JR大井町駅付近)へ向かうにはどういうルートで?

 ここに至る直前のルート以上に不詳で研究者も上野公園脇→本郷通り→皇居あたりという程度。武蔵野台地東端といっても谷中→寛永寺→上野公園→不忍池に至る上野台地のラインと中央に藍染川(現在は暗渠)が流れる低湿地の谷を挟んだ西側の本郷台地ラインに区分できる。

  上野の台地に遺された唯一の墳丘として、摺鉢山古墳があり、前方後円墳と考えられている。このほか付近に、東京文化会館敷地内には桜雲台古墳、国立博物館内には表慶館古墳、旧都立美術館南正面に蛇塚古墳があったという。

古墳群のほかに縄文時代貝塚や遺跡もあり、JR西日暮里西側沿い北から南へ道灌山遺跡、延命院貝塚、領玄寺貝塚天王寺貝塚、新坂貝塚、と続いている。

 谷田川を挟んで本郷台地には富士神社古墳、動坂遺跡、向ヶ岡弥生町貝塚、東大構内遺跡、湯島切通貝塚と遺跡が目白押しだ。

 では南に歩くとして上野台地、本郷台地どちらを選択したらよいのだろうか。足して二2で割って真ん中を歩く?

そういうわけにはいかない。何しろ昔はそんな道はない。明治以降も低湿地の酷い状況が長く続いた。

 

 上野台地の摺鉢山古墳(前方後円墳)を見て見よう。上野公園内はこの地図がわかりやすい。東京文化会館の北側に上野公園管理所と小さな文字が見えるがその左手の起伏が古墳だ。

管理所左手の階段を上った所。かなり削り取られて平坦化されているが。

 公園内には数多くの公的施設があり、その一つは一時期私の職場でもあったが在勤中全くこの古墳のことは知らず、階段を上ったことは一度もなかった。
物理的に見えているものも前提に理解・意識しているものがないと見えない同然ということがある。

 東京文化会館の遺跡はどこらへんだったのだろう。

文化会館は職員入り口(ファンが出待ちするところ)を入ってすぐ左に事務室があるがその執務室の外にシークレットゾーンともいえる庭があるがそこかもしれない。

外から見るとフェンスの向こう側だ。

あるいはその外であったかもしれない。

脱線するがこれも今回初めて気づいた外壁。前川氏のただ事でない仕様に恐れ入る。氏の細かな部位に至るまでの極度の集中力はすさまじい。

 

東京国立博物館はこの地図で右上に

 

一方、本郷台も前述のように遺跡は多く、これらの点で単純に優劣はつけられない。後へ続くルートへのスムーズな移行性、一口で言えば「地形」で考えたい。すぐ低地になり不忍池にぶつかる上野台より谷を横切るにせよ幅が幾分でも狭く安定した上流域を選ぶのではないか。そう考え、先ずは古くからある団子坂のピークを目指すことにした。

 当時は天王寺(前身は感応寺)も林立するお墓もなくほぼ直線で行けただろう。約900m弱の距離だ。

団子坂上といえば森鴎外の旧居跡があり、文京8中・汐見小との間を通る薮下道は雰囲気の良い文士に人気のある道だ。

 

 

 

が山の中腹で元来狭く、官道と言うには無理だろう。もう少し先に進んで平坦な尾根道を左に角度をつけながら進む。少し歩くと日本医大があり(文京区千駄木1丁目)、そばには漱石が「吾輩は猫である」を書いた旧居跡がある。高台の明るく静かないい所で、昔から東大の先生も多く住んでいる。作家車谷長吉が東大出身の奥さん(詩人)から千駄木に住みたいとおねだりされたと書いている。南進し弥生1丁目の弥生キャンパス(農学部)をかすめ、まもなく本郷通り(17号)に入る。

 

 本郷3丁目を過ぎ、壱岐坂上あたりで順天堂大学の建物を目にしながら道は大きく左にカーブするがまっすぐ進む。300mほどで外堀にぶつかる。徳川幕府が治水と防衛の両面から神田山を掘って外堀(神田川)を開削したもの。千年前のことを考えているのに現代の作家とウクライナ戦争が思い浮かぶコースである。




更級日記東京の道 ① 開始の経緯

 今年度第1四半期、たまたま縁あって某紙に「更級日記東京の道」を連載する機会を頂きました。

これまでの当ブログ、更級日記の道「武蔵国」で述べているところと範囲的には重なりますが、再度の実地踏査、新たな資料の取得・閲覧等により考えを修正したり、写真を含めより詳しい記述にしたものなどがあります。そこで従前のカテゴリーはそのままに新カテゴリーとして「更級日記東京の道」を開始することにしました。

 述べるのは全部と言うわけではありませんが(*)、参考になれば幸いに思います。

 

*江戸川を渡河して千葉県から東京都に入都→新中川(中川放水路)→中川→荒川(放水路)→墨田川→谷中→本郷台地(千駄木)と進んでいきますが上野あたりから進めます。

邪馬台国連合VS狗奴国(くぬこく、くなこく)連合

白石太一郎氏の「東国の古墳と古代史」を手にした。

 (初版 2007年 学生社)

 

読みやすく、率直な言い方をしてくれているいい本だと思う。参考になる箇所が多い。

1 先ずは、本文内容ではないが序文の箇所。

国立歴史民俗博物館の創設にあたっての井上光貞岡田茂弘氏からお誘いを受けたときの心境吐露だ。

古墳時代の政治・文化や古墳造営の中心地と目されている関西のフィールドを離れて、関東に研究拠点を移すことには大きなためらいがあったこともまた事実である。」

かっての、いや、今でも西日本研究者の根底的共通認識かもしれない。氏は東国に来て研究を続けそれを踏まえての優れた研究発表を行っているがそういうこともなく生涯西国で研究を行っていると、ある意見について「東国にそういうことはあるはずがない」と言うようになるのかも。

 

2 最も惹かれたのが次のテーマ

  西日本の邪馬台国連合VS東日本の狗奴国(くぬこく、くなこく)連合のとらえ方

従来、広大な東日本の諸地域が近畿のヤマトを中心に成立した政治的世界に組み込ま

れたのは記紀に描かれているようにヤマトの将軍たちの度重なる東方遠征によって、次

第にヤマト王権の版図が東に拡張された結果と理解されてきた。

前方後円墳三角縁神獣鏡の分布の拡大など考古学による研究成果もこうした考え方を裏付けるものとされてきた。

 氏は「最近の東日本における考古学的調査・研究の成果によると、この日本古代史の常識は大きく訂正されなければならない」とする。

そしてその根拠,契機の一つに古墳時代前期前半(3世紀後半~4世紀前半)の西日本と東日本での大型古墳の在り方に見られる大きな相違が明白となったことを挙げている。

すなわち、古墳時代前期前半においては西日本ではほとんどが前方後墳であったの対し、東海、中部高地、北陸、関東など東日本の広大な地域ではこの段階の大型の墳丘を持つ古墳はほとんどすべてが前方後墳。

さらにこの顕著な相違は定型化した大型の前方後円墳前方後方墳が出現する前、弥生時代の終末期までさかのぼることが明らかになってきたことをあげる。

細かい過程は紹介できないが、ざっと筋をいうと次のようになる。

ヤマトを中心とする畿内勢力と瀬戸内海沿岸各地の勢力が連合して玄界灘沿岸をおさえたのが邪馬台国を中心とする倭国連合。

この29カ国連合のさらに南(東と読み替える)に狗奴国という国があって卑弥呼の晩年、邪馬台国と戦った。

ヤマト国以東で倭国連合と対等に戦えるような勢力は、考古学的状況証拠からは濃尾

平野以外には考え難い。狗奴国は濃尾平野を中心に形成されていた弥生時代中期以来の原生国家にほかならない。

 

(ただし、両連合を広大な地域を面的にすべて含むものとすべきではなく多分に線的に結びついた同盟関係と考えるべきという。それぞれ類型に入らないものもあることを踏まえているのだろう。)

 

 濃尾平野ないし東海西部の勢力が東日本各地に強い影力を及ぼしたことは、東日本各地の極めて地域色の強い弥生時代後期の土器が、基本的には東海西部の土器の影響を受けて土師器に転換することからも疑いないとする。

 

3世紀中葉、両政治連合の争いは邪馬台国側の勝利となり、東日本の広大な地域また、西日本でもこの連合に入っていなかった諸勢力も加わることになった。

 

 

邪馬台国連合勝利後について>

 次のように説明する。

邪馬台国連合と狗奴国連合の合体で新しい政治的秩序としてのヤマト政権が成立したがその後4世紀前半までの1世紀近くの間は、東日本の首長など二次的メンバーは前方後方墳を作り続ける。

          ⇓

 大和政権の版図がさらに東北地方まで広がり、それに伴ってヤマト政権における東日

本、特に関東地方の重要性が増大するに従い1次メンバ―、2次メンバーの区分の意

味が薄れ前方後円墳前方後方墳の区別の意味がなくなってくる。

こうして、東日本の首長たちの古墳も次第に前方後円墳に転換していった。

 

 ただ東日本でも下野(栃木県)ではなぜか前期の終わりごろまで前方後方墳の造営が続

く。さらに西日本でも出雲地域では後期まで前方後方墳の造営が続く。

これらはこれらの地域が、その地域的伝統に強くこだわった結果にほかならない。

 

 

 

リアルな体験とネット・文献での知見の差異 ③ 五反田

「世界は五反田から始まった」(ゲンロン)との地名入り題名が良かったのかずいぶん話題となった。

大佛次郎賞という朝日新聞系列の受賞だが先日12月29日の読売新聞で東大教授宇野重規氏との街歩き対談が記事となっている。

この写真、目黒川の橋で撮ったとある。

 

懐かしい。3月28日に桜田門から歩いてやってきたところだ。

どの橋なんだろう。後ろ中央の建物が目印となる。

 

五反田placeという建物。

ということは本村橋ということだ。

この橋は武蔵国 で上げている。

五反田という場所には全く土地勘がないので説明を聞くばかり。

そういえば昔、通信機を作っていた今でも現役の小さな会社があって一度来たことがある。

五反田に近い戸越銀座で町工場を営んでいた家で育った作家星野さんと八王子郊外の団地で育った宇野教授とは接点がないかに見えるがさすがに宇野さん、大学の先生

で洞察が深い。八王子が宿場だった歴史、今住む横浜郊外が江戸時代は大山街道沿いだったことを述べる。

星野さんの「面白くない街は絶対にない。どんな街でも立ち止まってよーく見れば、絶対に面白いはず」の発言に至極共感する。

お二方が歴史を知る必要がある、自由には戦略が必要と言っていることが興味深い。