白石太一郎氏の「東国の古墳と古代史」を手にした。
(初版 2007年 学生社)
読みやすく、率直な言い方をしてくれているいい本だと思う。参考になる箇所が多い。
1 先ずは、本文内容ではないが序文の箇所。
国立歴史民俗博物館の創設にあたっての井上光貞、岡田茂弘氏からお誘いを受けたときの心境吐露だ。
「古墳時代の政治・文化や古墳造営の中心地と目されている関西のフィールドを離れて、関東に研究拠点を移すことには大きなためらいがあったこともまた事実である。」
かっての、いや、今でも西日本研究者の根底的共通認識かもしれない。氏は東国に来て研究を続けそれを踏まえての優れた研究発表を行っているがそういうこともなく生涯西国で研究を行っていると、ある意見について「東国にそういうことはあるはずがない」と言うようになるのかも。
2 最も惹かれたのが次のテーマ
西日本の邪馬台国連合VS東日本の狗奴国(くぬこく、くなこく)連合のとらえ方
「従来、広大な東日本の諸地域が近畿のヤマトを中心に成立した政治的世界に組み込ま
れたのは記紀に描かれているようにヤマトの将軍たちの度重なる東方遠征によって、次
第にヤマト王権の版図が東に拡張された結果と理解されてきた。
前方後円墳や三角縁神獣鏡の分布の拡大など考古学による研究成果もこうした考え方を裏付けるものとされてきた。」
氏は「最近の東日本における考古学的調査・研究の成果によると、この日本古代史の常識は大きく訂正されなければならない」とする。
そしてその根拠,契機の一つに古墳時代前期前半(3世紀後半~4世紀前半)の西日本と東日本での大型古墳の在り方に見られる大きな相違が明白となったことを挙げている。
すなわち、古墳時代前期前半においては西日本ではほとんどが前方後円墳であったの対し、東海、中部高地、北陸、関東など東日本の広大な地域ではこの段階の大型の墳丘を持つ古墳はほとんどすべてが前方後方墳。
さらにこの顕著な相違は定型化した大型の前方後円墳や前方後方墳が出現する前、弥生時代の終末期までさかのぼることが明らかになってきたことをあげる。
細かい過程は紹介できないが、ざっと筋をいうと次のようになる。
ヤマトを中心とする畿内勢力と瀬戸内海沿岸各地の勢力が連合して玄界灘沿岸をおさえたのが邪馬台国を中心とする倭国連合。
この29カ国連合のさらに南(東と読み替える)に狗奴国という国があって卑弥呼の晩年、邪馬台国と戦った。
ヤマト国以東で倭国連合と対等に戦えるような勢力は、考古学的状況証拠からは濃尾
平野以外には考え難い。狗奴国は濃尾平野を中心に形成されていた弥生時代中期以来の原生国家にほかならない。
(ただし、両連合を広大な地域を面的にすべて含むものとすべきではなく多分に線的に結びついた同盟関係と考えるべきという。それぞれ類型に入らないものもあることを踏まえているのだろう。)
濃尾平野ないし東海西部の勢力が東日本各地に強い影力を及ぼしたことは、東日本各地の極めて地域色の強い弥生時代後期の土器が、基本的には東海西部の土器の影響を受けて土師器に転換することからも疑いないとする。
3世紀中葉、両政治連合の争いは邪馬台国側の勝利となり、東日本の広大な地域また、西日本でもこの連合に入っていなかった諸勢力も加わることになった。
<邪馬台国連合勝利後について>
次のように説明する。
邪馬台国連合と狗奴国連合の合体で新しい政治的秩序としてのヤマト政権が成立したがその後4世紀前半までの1世紀近くの間は、東日本の首長など二次的メンバーは前方後方墳を作り続ける。
⇓
大和政権の版図がさらに東北地方まで広がり、それに伴ってヤマト政権における東日
本、特に関東地方の重要性が増大するに従い1次メンバ―、2次メンバーの区分の意
味が薄れ前方後円墳と前方後方墳の区別の意味がなくなってくる。
こうして、東日本の首長たちの古墳も次第に前方後円墳に転換していった。
ただ東日本でも下野(栃木県)ではなぜか前期の終わりごろまで前方後方墳の造営が続
く。さらに西日本でも出雲地域では後期まで前方後方墳の造営が続く。
これらはこれらの地域が、その地域的伝統に強くこだわった結果にほかならない。