古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

そうだ東京へ行こう ②護国寺 ③ 音羽通りと講談社

護国寺

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交通
JR御茶ノ水駅から総武線各駅電車に乗り、二つ目の飯田橋まで行く。
少し歩くけど地下鉄有楽町線に乗り換え、護国寺で降りてすぐ。
選択理由
護国寺は前を通った事はあるけど、中に入るのは初めて。
きっかけは、今年たまたま真言宗豊山派と縁ができ、意義を感じたので。
・出会った四国遍路中のオランダ人学者が真言宗豊山派の僧籍を持っていたこと
・北海道富良野市後藤純男美術館を開いた後藤純男氏(元東京芸大教授)は真言宗住職の息子として生まれたが、父は一時財団法人豊山中学校(現、日大豊山中学校高等学校)の教師になり、本人も同校へ入学したこと。
・その日大豊山中学校高等学校は護国寺の隣にあることなどである。

 

   

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沿革
護国寺は1681年、五代将軍徳川綱吉が、その生母、桂昌院の発願により開山したもの。
豊山派では総本山は長谷寺護国寺大本山として江戸の拠点となっていた。
真言宗は平安の末期に興教大師(こうぎょうだいし)によって再興され、その思うところはあとの豊山派、智山派になった。あわせて新義真言宗と呼ばれている。
 印象 
・広く、高野山にあるような立派な家型の墓があるのには驚いた。有力な檀家が多そうだ。
・写真の塀のある一角は皇族あるいは徳川家ゆかりのものかと思ったが、大隈重信のものであった。勲一等侯爵という文字が見えた。

 

            

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・車の駐車が多いのは残念。
藤原新也風に言うと私にはアウラは感じられなかった。
 

③ 音羽通りと講談社

             

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護国寺を出るとあとは徒歩になる。
次の目的地(④)へ行く途中もあえて③にしてみた。
講談社の特徴ある建物が目につく。右隣の高層ビルも多分関係しているはず。
反対側には光文社が。むかしカッパブックスが話題になった。
なお、光文社も講談社の関連会社らしい。

           

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意図的なのか古風な木造店舗もある。

 

        

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次は④鳩山邸へ

 

 

 

 

 

延喜式って何?

 

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古代の道のことを述べる本には必ず「延喜式」なる言葉が出てくる。

そういえば昔、日本史の教科書でその言葉を目にしたっけ。

今、更級日記を考える上でも必須の言葉になる。

ではその定義は?

 

国立歴史民俗博物館研究報告第218集(令和元年12月 非売品)

 古代の百科全書「延喜式」の多分野協働研究中間報告で

 

編者である小倉慈司氏がわかりやすく教えてくれている。

 以下引用

927年に完成し、967年に施行された、全50巻、条文数約3500条に及ぶ古代の法制書である。

古代の法制度は律令格式を基本にしているが、延喜式はこのうちの「式」にあたる。「式」は律令法の根幹をなす「律令」に対し、施行規則に相当するが、わかりやすく述べれば諸官司における業務マニュアルということができるであろう。

 三度にわたって編纂された「式」のうち延喜式はその最後に編纂されたものであり最初の弘仁式、二番目の貞観式を包摂する内容を有している。

(中略)さながら古代の百科全書ともいえる内容を持っている。

 

The Sarashina Diary

 

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A woman's life in eleventh  century japan 

数年前、コロンビア大学から英訳が出版されている。

写真も多く読みやすそう。

日本人学者も参加している。

 

源氏物語がもてはやされているけど、それは悪く言えば貴族社会の情痴小説。

 

更級の方は女の一生を記す。

僻地居住者の都会へのあこがれ

うだつの上がらない父親

当時としては行き遅れの超晩婚

姉の死、乳母の死、夫の死

周りに人がいなくなり、姥捨てを口にするような晩年

はるかに普遍性があり、共感を得られると思う。

猫のエピソードは昨今の猫動画ブームと変わらず、その点で時を超えている。

 

 

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房総古代道研究会会誌 (一)~(四)

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 千葉市立中央図書館の地域資料を並べてある部屋で市原市郷土史を研究しているグループが発行する会誌を見つけた。

写真は全4号中の3冊。

 

 根底に地元愛があり、前向きな熱意が感じられる。

特に1号は充実(2016年発行)。項目は以下のとおり

 

 

 

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とりわけ4番目の「更級日記から見た上総圀いちはら」が秀逸だ。

わかりやすい平易な記述でしかも重要なことを冗長に流れることなく書いている。

郷土史家のレベルを超えていると思ったら、古代交通研究会の副会長佐々木虔一(けんい

ち)さんだった。

 

 私が疑問に思っていたことをそのものずばりに書かれていた。

「6 旅ののりもの、服装、護衛の武士」がそれ。

 さすが学者先生は縦軸横軸の学識があるから違う。

 旅ののりものについてはまた後日に。

日本古代道路辞典

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こちらの書籍は図書館にあった。禁帯出だったけど1万を超える高額な図書だけに助かる。

前回紹介したものの8年前の発行。

地図は少ないが文書が多く、論文集という感じだ。

特に序の記述が参考になった。

古代交通研究会の編であり、中心の方は同じメンバーの模様。

そうだ東京行こう① お茶の水と檸檬

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上総の圀から京の都まで、古代東海道はざっくり500キロ。

四国88か所遍路は1200キロ(かっては1300キロと言われていた)。

これらに比べてはるかに短く、しかも現代の東京23区山手線内だが目白通りを歩きながら街の風景を味わったことがある。

「そうだ京都行こう!」に対抗しての「そうだ東京行こう」版だ。

時期は2008年~2009年だが、出発地JRお茶の水の駅も大きく変わろうとしているらしい。13年でそんなに変わるのか。

順次紹介して行きたい。

 

 落ち着いていて、清潔で、文化と歴史があって年配の人にも、若い人にも喜ばれ、勉強にもなるところと思う。
歌、文学、建築、寺社・教会、美術館、有名な学校も入っていて歩いて1日コース。

 

① お茶の水檸檬

 

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一つとなりの秋葉原ほど全国区ではないけど、そこが自分たちの街という感じがしてよい。
子供の頃から好きなところで今もたまに行く。

スクランブル交差点を下っていくときれいになった明大校舎があり、
その先の小道を右に曲がれば漱石の在籍した錦華小跡が。
曲がらずまっすぐ行けば三省堂そして古本屋街が。
かって大型書店と言ったら三省堂くらいしかなかった。
楽器の町でもある。私のムラマツのフルートは下倉楽器で購入したもの。
スポーツ店も多い。それに線路北側には多くの大病院が。

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学生と正業の健全な街といえよう。

 

お茶の水を正面から歌った歌にさだまさしの「檸檬」がある。
スローモーションの映像を見ているような歌詞とはっきりしたリズムの上で奏でられる彼らしいロマンチックな旋律が心地よい。
「そして神戸」と並ぶ名曲と思う。
紅色(JR中央線快速)とカナリヤ色(総武線)の電車はいつの間にかアルミ車両に変わり、その色はラインでしか残っていないのが淋しい。
聖橋とスクランブル交差点(お茶の水橋の方であろう)が舞台。倉橋由美子も歩いたんだろうな。

  

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「あの日、湯島聖堂の白い階段に腰かけて
 君は陽だまりの中へ~」
「食べかけの檸檬 聖橋から放る
 快速電車の赤い色がそれとすれ違う」
「君はスクランブル交差点斜めに渡りながら
 不意に涙ぐんで~」

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梶井基次郎檸檬に触発されて創ったとはっきり言っている。
 さだはバイオリニストを目指して上京したが、鬱々としていた若い時もビッグになった後も長く住んでいたのは市川市(千葉県)で、利用する国鉄・JRは総武線であった(一部、京成もあったかも)。

私にとってもお茶ノ水は日々通過する駅であった。

古代東海道のルートと「地図で見る東日本の古代」

古代東海道のルート図を知りたいが、アバウトあるいは部分的なものばかり。

 

延喜式では、○○となっている」という概略的なもの多い。

郷土史あるいは自治体が解説するものはかなり詳しいが、残念ながら身近あるいは管轄内のものがほとんど。もう少し広く、「○○の圀」レベルで点ではなく線的に道の詳細を知りたいが何かいい資料はないか?

 片手間ではできるはずがなく、やはり学者・研究者先生に依拠せざるを得ないようだ。

そんな折こういう本のあることを知った。

地図で見る東日本の古代

内容を見るとよさそう。ネットの評判も悪くないどころか相当に良い。では図書館で、と思ったがなぜか蔵書検索では出てこない。千葉市中央図書館、同県立図書館,東京都中央図書館、国会図書館にもない。

納本制度があるのにおかしい。

 すでに絶版となていて、ネットで購入するしかない。価格は15400円と高く、しばらく躊躇したが、類書が見当たらないので購入することにした。

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内容説明

奈良・平安時代の主要な道路を明治期の五万分一地形図で網羅し、2011年の東北地方太平洋沖地震による津波浸水範囲を詳細に記載するなど、自然災害との関連性をも考察できる。古代日本における農村計画の基礎を築いた条里地割を旧版地形図判読により明らかにし、条里呼称についての研究成果も採録。国名、郡名はもちろん、郷名までも収録し、国府、郡家、駅家といった古代施設も掲載。さらに関連遺跡、古墳、貝塚をも収録。

良かった。紙質はよいし、何より知りたい古代のルートと現代の地図との関連がわかるのは秀逸。「借りてカラーコピー」では対応できないか不経済に思う。

 

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更級日記より130年前に日本人男性による国際的紀行文が書かれていた。

 更級日記のグレートジャーニのフォローを始める前にこう書くのもなんですが、負けず劣らず、というか見方によってはそれ以上に意義深い紀行文がありました。何しろ海外版ですし、夢見る少女ではない成人男性の手になるので違いがあります。

以下紹介します。

 

   「円仁慈覚大師の足跡を訪ねて」(阿南・バージニア・史代著)

 

 最後の遣唐使の一員として唐に渡った僧円仁(延暦寺3代座主になった人)が著した巡礼記「入唐求法巡礼行記(838年~847年)」に感動して阿南・バージニア・史代さんが書いたのが上記の本です。

 

これほど円仁の巡礼行記が価値ある重要なものであるとは知りませんでした。

更にというかその前に驚くのはそもそも米国白人系女子大生だったバージニアさんが円仁のことを知ったのもあの元駐日米国大使ライシャワー氏が1955年に英語で著した翻訳著作がきっかけとのこと。

 どんなに優れたものでも誰かが英語にしてくれないと世界基準の知見の舞台には登壇できないようで改めてライシャワー氏の学識・学恩には感謝すべきと思う。

 阿南・バージニアさんは言う。

 三蔵法師による7世紀のインドへの求法の旅「大唐西域記」、あるいは13世紀のマルコポーロの東方見聞録よりはるかに信頼性が高いと。

マルコポーロは文盲だったし、三蔵法師の方も大部分は後に帰国後弟子に口述筆記させたものだが、円仁は旅と同時進行で日記を自ら書き続けたもの。

 

 実際、円仁は9年という長期にわたって滞在し、自分の足で長距離を歩いており

「その驚くべき詳細な記録は唐時代の生活の集大成を成している」ということがよくわかるし、「王朝史が欠落している庶民生活を活写している」ものになっている。

 

 余談になるが著者は円仁が1日大体32キロ歩き、1日に46キロという驚くべき苦行の日もあったと感慨深げに書いているがこれだけは私の四国遍路の歩行記録とほぼ同じで、人間のやることは1200年前と変わるところはないと知り、少し嬉しい。

 

円仁に戻るが当時、現代の毛沢東による文化革命にも似た凄まじい廃仏毀釈運動もあったそうだが円仁はその目撃者としての貴重な記録も残している。

いきいきとした円仁の記録は鴨長明の災害記録にも似ているところがあってその点でも気を惹かれる。

当時の日本人エリートの文化度・言語表現能力はとてつもなく高かったことがうかがえる。

 

 俗っぽいことになるが著者の夫は元駐中国日本大使でチャイナスクールの重鎮阿南惟茂氏(亡命希望者を追い返した人)、その父はあの軍人!と付随的興味もとめどもない。

夫がこういう人であったことが「足跡を訪ねる」ことにどれほど有利に働いたかも想像に難くはない。*

 

 それにしてもキャンベルさんがいうように明治に至る日本の膨大な文字文化遺産が普通の日本人では理解・享受できないものになってしまっていて嘆かわしい。空海展をみてもなにやら漢字が書いてあるなあ程度。正岡子規だって多くは漢文だらけで英語の方で何とかフォローする始末。

 外国語的感覚で習得する必要があるのかも。

 

*「父は終戦時に陸軍大臣を務めていた阿南惟幾で6人兄弟の末子である。叔父に宮城事件に関係した当時軍務課内務班長の竹下正彦中佐、義姉に講談社前社長の野間佐和子がいる。(ウイキペディアより) 」

 

円仁、阿南・バージニア、その夫、夫の親族といろいろな意味で重畳的に興味がわく。

 

 

千年経っても見下され可哀そうな父親

菅原孝標女ではなく父親菅原孝標のこと。

あまりに低評価、酷評で可哀そうすぎる。

更級日記についてのぶ厚い本を読むと父親のことが出てくる。

解説することが多い犬養氏はこう書いている。

 日本古典文学全集1971年初版 小学館

 犬養廉(キヨシ 大正11年生まれ)

 

 孝標自身もこの時代を生き抜くにはあまりに凡庸な好人物だったらしい。

菅原家は大江家とともに学問を分掌、歴代,文章博士・大学頭に任じてきたが、孝標に至っては、そのいずれにも任じていない。

西暦1000年蔵人、翌年29歳で叙爵してより、孝標はわずかに上総、常陸の受領を歴任したに過ぎない。

彼の学問官途の蹉跌は15歳にして父資忠を失ったことにもよろうが、それ以上に彼自身の魯鈍な資質に帰せられよう。

 

1023年孝標女16歳時孝標が道長に従って龍門寺に参詣、菅丞相真筆の扉に仮名の拙草を添え書きして失笑をかう。

  注)菅丞相(かんしょうじょう)とは菅原道真 (すがわらのみちざね) の異称。

 

 優秀ではなくも「魯鈍な資質」とはあまりに。死んで千年経ってこういわれるなんて。昨今犯罪歴ある人について、いつまでもネットでそのことを言われ続けるのはいかがなものかと、忘れられる権利を主張する向きもあるというのに。

 パッとしないが子供思いの好人物であった、それでいのではと思う。

 

更級日記に関する資料・文献

参考になる資料・文献

 更級日記の文学性に重きを置くものと

 古代東海道のルートや当時の中央・地方の政治・統治機構、社会の風俗など、歴史・地理学的考察に力点を置くものに大別できるようです。

前者は古くから文学部あるいは文筆家(ちょっと前は堀辰雄、古くは藤原定家)の守備範囲で多くの人にささえられていますが、後者はさらに多くの人に研究、愛好されています。

 考古学、歴史地理学、土木工学、それに地元地域のアイデンティティ醸成に連なる点からでしょうが関連自治体・社会教育施設の取り組みも多いようです。また各地の郷土史家の言及がとても多いようでインターネットの普及で目にできるその数は、膨大となっています。開かれた参加型研究で現代の良さだと考えています。

 

ここでは、ほんの一部ですが、インターネットで(無料で)参照できるものを紹介していきます。以降適宜追加していくつもりです。

 

 

 更級日記千年紀行2020

  市原市役所関連の充実した内容のHPです。

更級日記紀行

 個人のものとは思えない幅も奥行きもあるものです。そのまま大学の先生になれそう。

神が宿るところ

 驚くほどの調査と知識量。そこに永年住んでいたかのような印象を受けます。

 横浜市歴史博物館

 なごや 幻の古代道路を追って