古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

上総の国⑥ 国府域を出てから通る道

 上総の国府場所については江戸の時代から現代にいたるまで論争があり、大別して4説になるようであるが、いずれにせよ区域内では仕事、生活の必要があり必要に迫られて大小、方向の様々な道が利用されていただろう。

 では国を出て京にへ向かうにはどのルートで?

 

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今現在の交通網は、西側東京湾に近いほうから

 国道357号(湾岸道路)OR16号

 県道24号(主要地方道千葉・鴨川線)

 JR内房線

 館山自動車道(高速) がある。

これらに斜めに突き刺さる形で交錯する国道が297号だ(大多喜街道)。

上図参照。

国道297号(大多喜街道)は遺跡の多い箇所を通り、しかも、国府候補の「郡本」「能満」にもかかわるような道順なのでわかりやすい道を一つというなら無難な選択だと思う。

 しかし、重要な地点「山木交差点」までならともかくその先で左折して県道24号(主要地方道千葉・鴨川線)に入ってこの道を右に進むという考え(採用する方はかなりいる模様)は支持できない。

県道24号はいわゆる房州往還道で江戸期にはかなりの隆盛を示していただろうが、そのこと、また飯香岡八幡宮の存在に引きずられてはいないか。

県道24号はあまりに海に近く、先で357号と合流しているし、その手前で渡る村田川は流れに変化が多く、現に昔の村田橋は公園になり、手前の橋を渡るようになっている。

 もう少し内陸側、と言ってもわずか2キロほどであるが館山自動車道の通るラインに沿って北上していると見たい。

館山自動車道の右(東側)には丘陵が続き、ここには古い豪族の古墳類も多いこと、さらにこのルートを選択すると先方の下総の国千葉郡で想定するルートにも素直につながることになる。 

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上総の国⑤ 国分尼寺展示館

展示館の中には大切なことがわかりやすく説明展示されている。

説明スペースが限られているということは新聞記事と同じで冗長に流れやすい書籍にはない長所をもたらしている。

室内撮影可ということも学習に効果的だ。

 

展示館の窓から復元建物が見渡せる。

目に入る建築資材のサンプルと説明が手元に置かれている。うまい構成だ。賢いぜ。

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その他、主展示室内の掲示資料

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国分寺より相当前に建てられている寺がすでにあり、そして豪族、郡司,国造の理解が大切とわかってきた。

 

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市原郡の光善寺、菊間廃寺、千葉郡の千葉寺葛飾郡弘法寺は古代東海道を考えるにあたっても留意すべきところと考える。

 

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上総の国④ 国分寺台町の風景と国分尼寺V2

 


市原市役所の両脇に国分寺国分尼寺がある。

国分尼寺は長いこと遺跡状態であったが近年わが国で最高レベルの復元がなされ、注目されている。

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市役所と消防署が並んでいる前を通る。(この風景、四国で見たことがある。)

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町並みは整然。道路は広い。国分寺台というところは高台の平坦地で住宅地としては理想的。(都心には遠いが)

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四国遍路の時もそうだったが古い道を歩きながらも現在所管する県や市の財政力や意識による古いものへの取り扱いの差異を目の当たりにすることがある。

市原市はその高さに圧倒される。

ここで昔の郡名も見て見よう。

上総の国の最北が市原郡。下総の国の南端が千葉郡となる。

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赤い印は国分寺以前からあった寺や国衙。菅原ファミリーも当然、光善寺、菊間、千葉寺を耳にし、その付近を通ったことと思う。

 

まもなく上総国分尼寺跡地に到着。少し離れて駐車場もある。

手前の展示施設の立派なこと。

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入館者は私一人。

親切な職員が私一人のために映画を上映し、説明してくれた。

このあたり、法隆寺そばの藤ノ木古墳を見学した際、夕刻に立ち寄った斑鳩文化財センターの女性職員が一人しかいない自分にビデオを上映してくれたのと同じ。

ありがたいことです。

 

さて、国分尼寺

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よくぞ建ててくれた。

全国の国分寺国分尼寺旧跡を紹介する本で絶賛していたがそう思わずにはいかない。

 

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おざなりでない広さとグレードだ。

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特にこれがフオーカスポイントとなっている。

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細かいところにも最新の配慮

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平城宮跡に負けていない。

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(続く)

上総の国 ③上総村上駅から戸隠神社そして国分寺へ V2

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国庁、国衙国府

山路直充氏は国府を考えるにあたって国庁、国衙国府域に分類する提言をされている。(房総の考古学p165)

 国庁は国司が政事を行う政庁を区画した空間

 国衙は国庁とその周辺に曹司が展開した空間

 国府域は国衙とその周辺に広がった国府関連の施設,市、寺、場合によっては所在郡の郡家と関連施設,駅屋などが展開した空間として関連する人々の集住を含めている。

 わかりやすく、なるほどと思える。国府域になれば、道路の視点も入ってくる。

 上総の国府域には国分寺国分尼寺は当然に入り,氏はいまたちの候補地五井も含めている。

 

さて、村上駅から国分寺に向かうことにして驚いたのが近くない台地まで道がまっすぐなことそして条里制というのかあたりがきちんと整理されていることだ。国衙候補地になることもうなづける。

 

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その名も怪しい国府橋がかかる浅い小川はきれいではないがそんなには汚くなかった。

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右に曲がって県道140号を進むと上下神社諏訪神社に達するがそこら辺一帯は諏方台古墳群として知られているところ。今回はいかなかったが市原市広報誌4月号は紹介している。

 

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少し傾斜の始まっている突き当りのこんもりした丘は戸隠神社。その右を進むと雷電池に至るがそこは後回しして左の坂道を上る。

           

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左に回って坂を上り始めるとすぐに簡素な鳥居が見える。戸隠神社だ。

覗いてみる。

高台で見晴らしもよい一等地だ。富士山信仰もある模様。

 

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裏から入ってしまったようだ。ここら辺はすべて富士山の見える西が正面の感じ。

遠くに高速(館山道)。その先は東京湾の方角。

 

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戻って坂を上る。道路突き当りの交差点正面に見える空き地はすでに旧国分寺跡。

門前も周りもよく整備されており、高台の立地もあって気持ちが良い。

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弘法大師像や、南無大師遍照金剛の文字を見ると四国遍路を思い出してしまう。ただし、太子堂は見られなかったが。

国分寺真言宗豊山派となっている。ここら辺は豊山派が多いようだ。四国88か所でもそれなりにあった。

茅葺の薬師堂は仏教建築としてトップクラスの美しさを感じる。

 

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坂を下りて大池に

 

 

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更級日記の研究

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先日、ひさしぶりに神田の古書店街を歩き、この大著を目にした。

1500円とお安かったので購入。

 

本来は文学の先生であるが、この日記に関するあらゆる側面に綿密なる考証を加えている研究論文である。

 

地理的側面のことも詳細で、国府位置や帰路の経路についても独自の推論を述べている。

しかし、松戸から埼玉の大宮氷川神社へ進むルートは?

東武野田線、JR武蔵野線のような感覚。

 

日本古代史研究辞典

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「はじめに」にある問題意識でもわかるが(*)、それへの手助けになる平易に総合的に書かれている良著と思う。

 

(*) 研究の深化と拡大は、必然的に日本古代史研究の全体的状況を把握することを困難にし、新たに研究を始めようとする学生のみならず、専門の研究者にあっても途惑いを覚えざるをえないありさまである。

 

資料、文献等の記載も丁寧。執筆者の大半は大学教員であるが、宮内庁書陵部の職員や公立中学校の事務職員も含まれる。

1995年初版 4800円東京堂出版

京への道 上総の国 ②小湊鉄道:上総村上駅

市原市の中心部は近代的、良質な住宅街となっているが町はずれのこの駅はさびれ,みすぼらしい状態だった。

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昭和2年の駅舎らしい。それを魅力ととらえることもできるが。

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  あたりを見ていると、少し人が集まって来た。

  おや、予期しない展開が。

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鉄道ファンが喜びそうなシーンとなった。

更級日記の道 1上総の国 ①出発地点の想定 

前書き・総論ばかりじゃひんしゅくを買う。

 そろそろ上総の国府から京へ向かって古代東海道の道を歩き始めないと。

 しかしここで難問!

 上総の国府がどこにあったかが定まらないのだ。

 古くから学者先生の間でも見解が分かれていて一向に定まらない。

 ざっくり四つくらいの説があるようだ。

 

 昔大学で先生に言われたことがある。

  「○○につて論ぜよ」、「○○の法的責任如何」という出題について最悪なのは

 A説は○○という、B説は○○となるという答案。。

 学説紹介など聞いていない。教授たるものそんなものはとっくに知っている。

 どう考え、どういう理由でどの学説を取り、その結果どういう結論になるかが最低限必要。他説への批判,自説に対する批判への配慮は其のあとでよいと。

 

  確かに、古代道でもいくつのルートを紹介してもそれだけでは目的地に到着できない。最低限どれかを選択して身と荷物を届けなければならない。

 そこで考えた。

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 前の駅は島穴神社付近。そこから国分寺近辺に向かってくるのだから一番島穴神社に近いところの国府候補地から出発すれば取りこぼしは少ないだろうと。

 で、候補地「惣社」に近い上総村上駅を出発点として北上することにした。北上の過程で郡本や能満の雰囲気も少しはわかるはず。

 

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千葉の道 千年物語

そういえば、ミレニアムという言葉がはやったのが平成12年、西暦2000年のことだった。

これを記念に県紙千葉日報に連載されたものをもとに発行された県の道路に関する集大成だ。

ヤマトタケルから現代の東京湾アクアライン(1997年開通)とよくまとめてある。

序と監修は国立歴史民俗博物館の山本光正氏。発行平成14年、

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1800円

予断排除と技術・工事史的側面

古い古い道路跡を探し、見つけるなんて大変なこと。

かなり明確に比定されている史跡が2か所ある場合、その間を直線で結び、そのルート

に近い道路があると、これだ!と言いたくなってしまう。

 1970年以降、古道はまっすぐということが強調されだしているので、この

考えと結びつくと危ういことになってしまう。

近世はそんなに昔ではない。その時代のものがあると―例えば○○往還―古代もそれに

引きずられてしまう可能性がある。もっと近い現代の道路計画によるものだってあるか

ら要注意だと思う。

 

 可曲(千葉県庁当たり)の駅屋と次の浮嶋(船橋か谷津当たり)の駅屋を直線で結んだもの

が古代東海道と即断するのは危険のようだ。

このあたり工事史に詳しい技術系人材の知識が役立つと思う。1

 この点で参考になるのが、千葉の道千年物語(千葉日報社)に転載されている国道14

号の改良工事図だ。

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海岸よりのまっすぐなコースは明治時代に作られたそうな。

図中に江戸時代は山の手回りのコースだったとある。

この本の記事中には

 海岸よりコースは明治19年完成

 千葉街道は「千葉寺参り」の往還をほぼ踏襲する、とある。

 千葉寺は700年代にできており千葉寺付近に出来上がっていたであろう道は古代駅路

になっていたと考えたい。付近には遺跡も大変多い。