古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

古代東海道 下総国⓲ 千葉駅近辺から稲毛方面へ

 千葉市中央区要町から同区椿森へ

 千葉市民会館にぶつかった後、線路の北側に行くには右側だと東千葉駅にまたがる椿森陸橋を通ることになる。少し大回りだし登りなので左折して逆に線路の下を通る道にした。

 

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このまままっすぐ行くとJR千葉駅

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右折して線路の下を通る。

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アンダーパスを経てすぐに千葉公園入口が左に見えてくる。

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かなり広く、綿打池は季節になると有名な大賀ハスを見に来る人でにぎわう。

オオガハスについては考古学上問題のあることを最近知ったばかりであるが、検見川の東大グランドあたりで触れたい。

 

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なお、千葉公園はかって車両基地があったところで軍との関連性も強く、近代史上もポイントとなる地点らしい。スーツ旅行さんは言及していなかったが少し残念。

さて、モノレール()の下、旧房総往還をたどるしかないのだろうか。

下の地図で赤いルートがそれ。

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しかし、引っかかる。

天台、穴川と進み(126号)、小仲台4丁目園生十字路で急角度で左折して稲毛駅に向かう(133号、134号)必然性がどこにあるのかわからない。

有名な浅間神社脇を通って直ぐに千葉街道に出られるのは近現代史的には便利だろうが昔にはそんな意義があるとは思えない。

浅間神社自体かってはより内部にあったらしいし)。

同じ台地上にあり通行の障害となるような絶壁やくぼ地がないのならもう少し直進性を

考慮してもよいのではなかろうか。

 そう思って上の地図で青色ルートを考えてみた。

更級日記上の叙述に関連する「黒砂」台3丁目を通ることになる。

より俯瞰的に言うとまだ海まじかの千葉街道に降りずにもう少し現JR総武線東側を進むということになる。

この方向の先には直道遺跡など近時多数の遺跡が発見されている東大検見川運動場や花見川流域が待っている。

 

参考:下は千葉市の資料(後日紹介)

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古代東海道 下総国⓱ 千葉市から先の探索で悩む―四国遍路との対比

 

ネット特にユーチューブやブログに旧街道を歩くというものが見受けられる。

特に東海道については正月の大学箱根駅伝があるし、江戸時代の戯作があるし、53次の浮世絵があるし、ということで特に目立つ。

 

歩くというのは一種何とかハイになる中毒性もあり、その最終ステージともいえる四国歩き遍路ではフランス→スペイン修道路を歩いてきたとか、前、東海道を歩いたという人も見受けられた。

四国歩き遍路を通し(1200キロ連続)で行うとリュック(軽くして8キロ前後)を背負って平均45日は掛かるのでかなりの覚悟が必要となる。

 *作家車谷長吉夫妻は60日以上かかったらしい。

覚悟というのは体力、長期間職を離れること(現役では無理。失業者も雇用保険の手続きがあるから中断せざるを得ない)、装備代+1泊6500円×45泊+四国までの往復旅費で何十万かはかかること。

 しかし、スペインへの遍路道(私は行ったことがないが数回行っている友人がいる)や四国遍路はとてもイージーな面もある。

それはルートや泊まる施設の情報が十全なこと。四国の場合、定番の遍路宿リスト付きルート地図がありそれさえあれば悩むことはない。日々歩いてその日の調子で今晩泊まるところに電話をかければ済む。

 登山の山小屋ほどではないが私は41泊中断られたのは3泊ぐらいだった。また四国では遍路客は全国、外国からくる大切なお客様で、おもてなしの気風が強いし、ルートも電柱やガイドレールに符合が記されているので地図を見る必要は少ないのが実態だ。

 

もし近世の東海道を歩くあるいは車やバイクで行くというのなら時折、一部旧道を歩く程度で済みルートに悩むことはほとんどないだろう。

距離もさほどのことがなく、おつむも筋肉にすればよいだけ。中学生から高齢者までよい目標設定になると思う。

 

 しかし、1020年ころの東海道はというとほとんどわかっていない。だからこそ学問の対象になり、ごく一部古代の官道らしきものが発掘されるとそれだけでニュースになる状況だ。

結局、歴史・地理学、考古学の知見を門前の小僧的に聞きかじってそれに学者・研究者でないという特権的?好位置に甘えて大胆な発想で決めるしかないと思う。

 

 さて、千葉市の中心千葉駅あたりから先、稲毛・検見川あたりまでをどう考えるかであるが、ここら辺に土地勘のない方、例えば関西の日本文学の先生なら、アバウトに海に沿って=国道14号(千葉街道)沿いに東京へ向かえばいいのでしょうと思うかもしれない。

 

 しかし少し土地勘のある人なら、そして道路の歴史を知る人ならそうはいかない。

何しろ千葉市登戸(のぶと)から稲毛までの千葉街道ルートは明治19年(1886年)に千葉監獄の囚人を使ってやっと出来たもの。

だから江戸期の房総往還も大きく東に迂回している。

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ここら辺のところの状況については以前紹介した武田宗久氏の作図を拝見するとわかるような気がする。

 文献 千葉市史資料編1 240頁 5-2図   

    千葉市街周辺における地形上の変遷と郷名

 

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開発と業界―大学考古学専攻、教育委員会文化課(文化財保護課)・財団(埋蔵文化財センター)―

 岡山大文学部教授松木武彦氏の手になる「未盗掘古墳と天皇陵古墳」という本がある(2013年 小学館)。センセーショナルな書名で、ちょっとどうかとも思われるが、だからこそ人に手に取ってもらえるわけで、その書名に意味がないわけでもない。

 

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 読んでみると結構実になる点があり、有益だった。

氏は、最近のコメンテーターのように支持する立場の説のみを語るのではなく反対説も紹介しており学者としての立場は忘れていない。最終的に自説根拠に丁寧であるのは他と同じでやむを得ないだろう。

 

 長所は以下の点

1 現存する古墳だけで16万基もあること(コンビニ5万店の3倍以上)を知らない我々

 素人が知りたい初歩的なことを教えてくれていること。例えば

 ・考古学というとロマンという言葉が発せられるが、そもそもロマンてどういうこと

 ・トレンチとは

などなど、親しみやすい出だしだ。

 2 氏は流行の言葉でいうと とがっている面があり、普通なら業界外には言わないはずの業界内部のことにも触れている。

以下引用の点は圧巻。他の本には決して書かれることはないと思う。

 

 

(以下一部概略趣旨紹介 p70)

・1960年代から1970年ころに頂点に達した開発に伴う破壊古墳の調査ラッシュはその後の考古学や文化財保護行政を様々な意味で方向づけるものでもあった。

・「破壊を前提とした古墳の調査を安易に引受けることは、結局は其の古墳の破壊に手を貸しているいることではないか」という意見と「壊されるのは決まってしまったことだから、できるかぎりその遺物をレスキューして記録を残すことが古墳にとって最善の手段」という反論がある。

・破壊される古墳を発掘して得られる資料の魅力も各自の研究内容や思惑と相まって意見や態度に影響しただろう。

 ラッシュ末期には破壊する側の業者や組織から調査費が渡される場合も出てきて、そういう費用がらみの生々しい話も当時は聞かれたようである。

・当時の社会や国が行った選択は、特に重要な遺跡や古墳は史跡や文化財に指定して破壊から守る一方で、開発とバッテイングする普通の遺跡や古墳は「記録保存」と引き換えに消滅させるという方式。

記録保存とは開発側が費用を出し、行政側が事前の発掘調査を行ってその記録を公にして残すということ。

・こういうシステムが軌道に乗った1970年代後半、各行政機関に所属して開発に伴う事前調査にあたる専門職員がたくさん求められるようになり、1980年ころ以降各大学の考古学専攻はそうした専門職員の養成機関の体を見せ始めた。

 かくて考古学は食えない学問から食える仕事の一つになった。開発によて消される膨大な数の遺跡や古墳と引き換えにではあるが。

 

 

殿塚・姫塚古墳の研究

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モダンできれいなカバーの本だ。

ただし、題名は難しそうで敬遠したくなる。

          殿塚・姫塚古墳の研究

            ―人物埴輪の3次元計測調査報告書―

 

専門的かつ高額そうで当方には縁がなさそうだがちょっと手にしてみた。

3700円とこの種にしてはお安い。

鹿島学術振興財団研究助成の対象になっているせいだろう。

        (2017年3月 六一書房 全体編集・総括早大 城倉正祥)

主たる内容の2部測量・GPR調査や3部三次元計測はちんぷんかんぷんであるが、それよ

り1部の1期1956年調査の項目が印象的だった。

滝口宏教授が実に効果的な方針を樹立し、開かれた発掘とでもいうものを実施してい

る。地元の4つの中学校生徒、成田高校(マラソンの増田さんの母校)成東高校、同分

校、匝瑳高校、千葉一高の生徒、青年団消防団、割り当てによる地区住民が手伝っ

ている。

県の教員に広く声をかけ、国会議員、知事まで引き寄せている。

結果的に土地の公有化、博物館の設置、国指定史跡をもたらし、現在の芝山はにわ祭に

までに至っている。

一考古学者がこれほどの持続的成果をもたらしている例は他に知らない。

 

 

1956年の発掘風景の写真は別の意味で興味深い。いがぐり頭で学生服の中学生、セーラ

ー服をきているおかっぱ頭の女子中学生、学帽をかぶってシャベルを持つ高校大学生な

ど、それ自体が貴重な資料に思える。

 

滝口 宏氏のこと

昔、学生の頃、T医科大学に進学した友人とおしゃべりをしていたとき

「滝口 宏」って知っている?と聞かれた。

私、高松塚の壁画が話題になればすごいねとは思うけど特に考古学には興味があるわけ

でなく、その名前、聞いたことがあるような無いような感じだった。

適当にあいまいな返答をしたと思う。

彼は医大の一般教養か講演で話を聞いたのであろう。国鉄Ⅰ駅前の大きな料理店の息子

だったので、もしかしたら下総の国府の話でも出たのかもしれない。

 

最近になって更級日記関連でにわかファンになって少しは関連の本を読むと、まあ上

総、下総関連で滝口氏の名前がよく出てくること!

両国の国府国分寺についてはもちろん、それ以外でも、例えば夷隅郡の大多喜の台古

墳でも大多喜高校生とともに発掘調査をしている。

とにかく千葉県、東京都を舞台に寝る暇があるのかと思うほどいろいろな調査をしてい

る。

プロフィールを拝見すると明治43年東京生まれ平成4年没。早大理事、女子美大理事長

目白女子短大学長、日本考古学協会長などを歴任しているとのこと。

盛んに論文を発表している山路氏、白井氏はお弟子さんかな?

 

手に汗を握るような遺跡の報告書 武田宗久氏と滝口 宏氏

以前、紹介した遺跡調査報告書*について

 非本質的な事柄かもしれないが、最近の整った役所的・公文書的報告書にはない、舞台裏の手に汗握るような、胸を打つ箇所があった。

発掘や調査にあたる人々の熱意や苦労が偲ばれるし、研究者への支援を考えるとき参考になると思うので紹介させていただく。

 

* 昭和40年3月付 千葉県遺跡調査報告書(千葉県教育委員会)

  項目 1千葉市蠣橋貝塚 千葉市今井町狐塚古墳 3市原市上総国府関係遺跡

  4宮の前遺跡出土のガラスについて 4千葉県松戸市千駄堀遺跡についての4報

  告。このうち、2と3について

 

 千葉市今井町狐塚古墳 武田宗久

「 昭和39年10月千葉市周辺の遺跡調査のため武田は本地区にさしかかると、古墳の後円部の土砂が盛んにブルトーザによって採掘されていることを知った。直ちに地主に相談して作業を中止してもらうとともに、千葉市教育委員会に通報し、同委員会は県教育委員会に連絡した結果、県の事業として発掘調査を行うことを決め、担当を筆者に委嘱した。

そこで調査団を組織し、調査員として武田宗久、川戸彰、小川宏一、(ほか3名)、補助員として千葉県立千葉高校郷土クラブ員が参加した。調査は昭和39年12月25日から40年1月6日まで実施した。」

 

発掘前に遺跡の現状を確認するため,同所の樹木雑草等をできるだけ除去し、写真撮影、測量、遺跡に関する付近古老の聞き込み等を行った」とある。年末年始の休みを返上しての超人的労苦だろう。敬服の言葉しか浮かばない。

 

市原市上総国府関係遺跡 平野元三郎 滝口 宏

 

昭和38年、1市原市山田橋字千草山遺跡と2 同市郡本字宮の前岩上、宮の前遺跡の一部調査を実施。

1は奈良時代末か平安時代とみられる~を~発掘したが地主の了解を得ぬため拡大発掘ができず中止

2においては (略)

八幡神社境内に部落公民館が知らぬ間に建設され、驚かされた。しかも、建築の地ならしは皆ブルトーザを使用して,遺物等は全然意識されていないので情けない話であった。

八幡神社境内公民館は地元において共有地なるがゆえに設置されたもので、敷地の断面に,土器片陶片等が包含された状態が無残に露出している。

 

(中略)

宅地化の速度は加速度的に増大しつつあり、国府遺跡の中核を未だに把握できないままにその消滅の危険が迫りつつある状況である。

(中略)

学生の冬期休暇を目当てに、調査要員の編成、現地調査基地の設営等を行ったところ、経済情勢の悪化に伴う予算削減のため、調査の見合せ通告を受け、日程の繰り延べを迫られ打撃を受けた。

 

 滝口氏は大学理事や学長を歴任し全国レベルの考古学者であったがその超人的ともいえる広範囲な行動を今になって初めて知った。氏につては別に述べたい。

古代東海道・下総の国⓰ ①から⑮の自説ルートと信用性

千葉中央遺跡通りなどと勝手なネーミングまでして、識者のお叱りを受けそうだ。

 

こういう時、学者と歴史を扱う小説家の対談を読むと面白い。

 

大昔のことなどしっかりした記録書がなく、細緻にわたってまでわかるはずはない。考古学的・科学的知見などごく一部に過ぎず、大部分は不明・闇の部分。そこを学問でなく想像で書くことが許されるのが文学・小説の世界。

 

なるほど。

私の場合は、にわかファンという立場からの想定だ。

 

私が購入した人生で最も高額な本「地図で見る東日本の世界」(2012年発行平凡社15000円)に古代東海道の想定ルートが載っているので照らし合わせてみよう。

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ど、ど、どういうこと!

私のルートとほとんど同じなんですけど。


海に沿って延喜式神社を経由しながら歩かなくてよいのでしょうか。

「地図で見る東日本の世界」の編著者はどういう方?

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編集委員に古代道のカリスマともいえる木下 良先生が入っていらっしゃるが、上記地図に延喜式東海道房総路推定ルートを記入されたのも先生であろうか。

 

古代東海道 下総の国⑮ 千葉神社から北進して鉄道と市民会館にぶつかる。

吾妻町通りをまっすぐ進んで行く。

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街の雰囲気も変わってくる。

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地方道40号千葉神社通りに合流する。

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斜め左に進む。

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そのまま進むと鉄道にぶつかってしまう。

千葉市民会館が眼前に立っている。

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ここで古代からの道と推定する道は分断されてしまっている。鉄道ができる前はどうだったか。

 

 

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つい最近、ほんとにたまたまのことであるが交通系トップユーチューバー「スーツ交通*」を目にしたらここら辺のことをテーマにしたものがあった。

(793) JR千葉駅はなぜ移動した? 50年前の改造工事 - YouTube

 

なんと効率性・合理性のため千葉駅は現位置に移転し、旧驛あとにできたのが写真の市民会館とのこと。

 なるほ旧驛に向かって道路が集結している。

明治期の地図で「千葉停車場」を確認できた。

空襲で焼かれる前の大日寺千葉神社が並んでいるのもうかがえる。

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スーツ交通氏(横浜国大5年生)は時流に乗るだけの軽薄なユーチューバーでないことは確かだ。

 

鉄道北側にある綿打池は100年、いや千年来不変であろう。この右側にある道―房総往還ーにつながるよう頭の中でつなげるしかない。

古代の官道で生じた駅家の移転は現代の鉄道でも当然に生じている。

古代東海道 下総の国⑭ 千葉寺→亥鼻→河曲驛(かわわのうまや)」へ V2

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では千葉寺観音を後にしてこれから進む道を古い110年前の地図で見て見る。

千葉中学校、県庁、裁判所、医科大学、左上に千葉神社と廃寺になっている大日寺が見える。

 

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千葉寺三叉路

 

 

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 千葉寺のそばにあるカトリック教会

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下りとなる。

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二股に分かれる。バスが通るのは左。一方通行の右側に入る。

一口で言って数十年タイムスリップしたかのような雰囲気の良い道だ。

文京区目白通りの台地下の道に似ている。あるいは本郷4丁目あたりか。

ただ、まっすぐなのが気持ちよい。

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この道は亥鼻の台地西側周縁に沿って北上している。

したがって右側は崖状。

上は現千葉高キャンパスではと思う。

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ここを卒業して弁護士をやっている友人がいる。コロナでこの2年あっていないが、あったら伝説の武田教諭のこと(長南武田氏の末裔で殿様と言われていたとか。NHK松平アナウンサーみたいだ。)や考古学サークルのことを聞いてみたい。高校教師とその指導を受けた生徒が後に残る成果を出している珍しいケースではないか。

県庁所在地ど真ん中に残る廃屋

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すこしづつミニマンションもできつつある。

 

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高徳寺

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 県立図書館

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右に曲がれば坂道正面に千葉県文化会館が見える。

 

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武部健一氏は著「古代の道」でここについてこう書いている。-84頁ー

 河曲驛(かわわのうまや) ー千葉市中央区市場町ーは千葉県庁の裏手で、千葉県文化会館のある小丘上に想定する。浮嶋駅から13.5キロである。

これまでの井上(市川)、浮嶋(習志野市谷津)両駅も、また、この河曲驛でも木下(良氏)は路線の屈曲点、台地上あるいは台地下の泉や井戸の存在などを駅間距離と合わせて駅家の比定地としている。

 

河曲驛の名は東海道で二つ目だが、ここもまた東京湾にそそぐ都川が河曲驛のある小丘陵によって屈折している地点である。

 

 

なお、図書館は古く狭く、県立青葉の森公園内への移転が決まっているが移転先でまたもや、遺跡が発見され建設は遅れているらしい。自分の移転工事で遺跡が見つかりその発掘報告を図書館内地域行政資料コーナーに保管し、遺跡は消滅することになるとは。

 

図書館の先隣りには別のお寺の入り口が。

中世千葉氏に関連するお寺 浄土宗 胤重寺(いんじゅうじ)

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このまま道なりに進みたくなるがちょっと待てよ。

とんかつ店の斜め後ろに吾妻橋が待っている。

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とんかつ店のところを右に曲がると丘の上にいろいろな公的施設がある。

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例えば、

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とんかつ店の前を左折し房総往還を横切る。

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吾妻橋

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吾妻橋(写真)右隣の橋は主流の大和橋。奥に見えるのは亥鼻の丘

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吾妻公園と真言宗豊山派寺院(千葉に多い。確か上総国分寺の現所属宗派も)

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中央4丁目交差点

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小映画館千葉劇場。良心的な作品上映を行っている。飯田橋の佳作座を思い出す。

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右は郵便局の車庫

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 さらにまっすぐ

 

 

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おや、変わった雰囲気の場所に出た。

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中世期、鎌倉時代の千葉氏本拠地

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注)文中にある神奈川の称名寺はかなり重要なお寺らしい。ちょうど今どこかで展示の対象になっているようなので興味がある方は調べてみては。

 

右側に見えるのは千葉神社

こちらは元気だ。

 

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直行を続ける。

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古代東海道 下総国 ⓭ 千葉寺と書「千葉寺いまむかし」を読んで

千葉寺界隈で足が止まって進まない。これではいつ京へ着くのか。

 

更級日記を世に出してくれた定家にかかわる冷泉家についての新聞2面の広報ページが魅力だったし(2021.7.4)、

 (全景俯瞰図を隣の同志社大から撮っているが、私もそうした。人のやることはプロ・アマ変わらない。)

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先日直木賞をおとりになった京都在住の女流作家の平安期にかかわる歴史知識,洞察の鋭さに驚いたところでもあり、いつまでも下総にとどまっているわけにもいかない。

 (偶然にもこの女流作家は上の同志社大OGでした。)

 

ところがまたまた内容のある冊子が目に入ってしまった。

 

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千葉寺 いまむかし」 104ページがそれだ。2018年4月発行

  発行に寄せる言葉:熊谷千葉市長(現千葉県知事)

  発行人藤沢妙孝(現住職 女性) 文 増山良子 絵と写真 山崎弘子  

作者の女性は主婦が時間に任せて、と謙遜するが上質な紙、豊富な写真、絵、有用資料が豊富でなかなかのもの。市販はされていないようでもったいないので少し紹介させていただく。

 私が注目するのは次の点。

① 千葉市域にあった郷名記載の略図 p17

② 永暦元年(1160年)落雷による焼失の項。旧所観音塚にあったという「三界六道観世音旧跡」の石碑が現千葉寺に移されている旨及びその写真。p26

 (私は石の状態、文字の刻みからさほど古くないものとの印象を受ける。)

③ 苦難のお寺の歴史(火災、廃仏毀釈その他)

④ 現在、行政は「千葉氏」を取り上げることが多いが、中世に栄えた千葉の町は千葉

 氏滅亡後、江戸期は幕府の天領佐倉藩の一部となっている一寒村に過ぎなかったこ

 とを述べている。

   千葉寺村小字図  p56

   ここに記載されている字名は各種遺跡調査に関連しており、有用だ。

⑤数回に及ぶ発掘調査の項 p58以下

 重要発掘品の写真が載っているのはありがたい。なお、次の点は要注意であろう。

「写真の説明文には、これらの出土品は県立千葉高校蔵になっていますが、本書をまとめる際に千葉高校に確認しましたが、所在は不明でした。」

近所の荒久古墳でも同様のことが生じている(現地掲示説明文)。土中に千数百年保存されていたものが発掘によって滅失されることになるとは。

その辺の保存・管理体制の適正化を促すような法整備はされていないのだろうか。

 ⑥千葉寺真言宗豊山派(大本山長谷寺)であり、その教義、歴史についても説明をしていること。

歴代住職に真言宗中興の祖、興教大師覚鑁(かくばん)の鑁を用いている人が散見される。

 ⑦ 現千葉寺右側部分*には僧坊等の建物があったことを示す明治初年推測配置図を載せてくれている点。

 

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 とにかく千葉寺廃寺あるいは中世千葉寺を理解するため有用な書だと思う。